ハッティ人とヒッタイト人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/22 07:39 UTC 版)
「ヒッタイトの歴史」の記事における「ハッティ人とヒッタイト人」の解説
紀元前5000年ごろから紀元前2000年以前の中央アナトリアにおいて、ハッティ人が最も有力な居住者で、他にアッシリア人の入植地もあった。ハッティ人は、インド・ヨーロッパ語族には属さないハッティ語を話し、ヒッタイト人とは別の文化を持っていた。 紀元前2000年より少し前に、ヒッタイト人とその他のアナトリアの諸民族がアナトリアへ来たと考えられているが、それ以前にヒッタイト人がどこにいたのかという事ははっきりとしない。クルガン仮説を支持する学者は、紀元前4千年紀から紀元前3千年紀におけるインド・ヨーロッパ語族の根拠地はポンティック・ステップ、すなわち現在のウクライナのアゾフ海周辺であり、北からおそらくカスピ海に沿って中央アナトリアに来たと考えている。一方、アナトリア仮説(英語版)を支持する学者は、同じアナトリアの別の地域から中央アナトリアに来たと考えている。 ヒッタイト人が中央アナトリアに定住するまでにはいくらかの時間が掛った。数世紀にわたって、ヒッタイト人はいくつかのグループに分かれており、普通は様々な都市を中心として生活していた。しかしボアズキョイを中心とするグループの強力な支配者たちが、これらの都市をまとめあげて、中央アナトリアの大部分を征服するに至り、ここにヒッタイト王国が建国された。 初期のヒッタイト人は、その出自は不明確だが、既に存在したハッティ人やアッシリアの商人から多くの文化を取り入れており、中でも特筆すべきものは楔形文字や円筒印章の使用である。ヒッタイト人はハッティ人やアッシリア人から楔形文字を取り入れた。 紀元前2千年紀の初頭からこの地域にインドヨーロッパ語族のヒッタイト語が現れ、その後6~7世紀にわたってヒッタイト王国の公用語となった。「ヒッタイト語」とは現代の慣用名であり、ヒッタイト語では「Nesili」(「ネサの言語」の意)と呼んだ。 ヒッタイト王国においても、ハッティ語は宗教目的で使われ続けており、ハッティ人とヒッタイト人の文化にはかなりの連続性があるので、ハッティ人はヒッタイト人に取って代わられたのか、ヒッタイト人に吸収されたのか、あるいは単にハッティ語が外来語として用いられただけなのかは定かでない。 ヒッタイト人がアナトリア地域へ移動してきた事が、紀元前1900年ごろの中東における民族大移動を引き起こすきっかけとなった。
※この「ハッティ人とヒッタイト人」の解説は、「ヒッタイトの歴史」の解説の一部です。
「ハッティ人とヒッタイト人」を含む「ヒッタイトの歴史」の記事については、「ヒッタイトの歴史」の概要を参照ください。
- ハッティ人とヒッタイト人のページへのリンク