ノウァティアヌス派の排斥
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 05:30 UTC 版)
「アレクサンドリアのキュリロス」の記事における「ノウァティアヌス派の排斥」の解説
当時、異教徒、ユダヤ人らとキリスト教徒の住民との間で紛争が頻発しており、キュリロスはエジプト長官(英語版)オレステス(en)と対立した。キュリロスはノウァティアヌス派(en)の教会を閉鎖させ聖器を差し出させた。長官オレステスはキュリロスによる蚕食計画を拒絶した。キュリロスは文法家ヒエラクスを派遣して多くの観衆を得たパントマイムショーでオレステスの勢力範囲を調べさせた。以前キュリロスと衝突したユダヤ人たちがヒエラクスに気付き、ヒエラクスがいるのは自分たちに暴動を起こさせるためだと言って暴動を起こし、オレステスは暴動鎮圧と自らの権威をキュリロスに見せつけるためにヒエラクスを劇場でさらし者にした。アレクサンドリアのユダヤ人たちはキリスト教徒を数多く殺害したとしてキュリロスはユダヤ人の関係者をアレクサンドリアから追放した。オレステスは力を失ったが、キュリロスの聖書を送ろうという申し出(キュリロスの宗教的な権威がオレステスに司教の権力に従うことを要求していることを意味している)を拒絶した。 ニトリアの修道僧達が砂漠からやってきて、アレクサンドリア市民たちの間でオレステスに対する暴動を扇動した。この修道僧たちは15年前にキュリロスのおじテオフィロスにも利用され、en:Tall Brothersがアレクサンドリアを追われた。修道僧たちはオレステスを襲撃し、異教徒であることを責めた。オレステスはコンスタンティノープル総主教から洗礼されたことを示して見せた。しかし僧侶たちは納得せず、その一人アンモニオスが石を投げた。それがオレステスの頭部に命中し、大量に流血した。オレステスの護衛兵は僧侶たちに石を投げられるのを恐れて、オレステスを残して逃亡した。しかしアレクサンドリア市民はアンモニオスを捕え、他の僧侶たちを退散させた。オレステスは手当てを受けるとアンモニオスを公衆の面前で拷問にかけ処刑した。 オレステスはテオドシウス2世に書簡を送ってこの事件を伝えた。キュリロスもまた皇帝に書簡を送り、説明した。キュリロスはアンモニオスの遺体を取り返して教会内に安置し、「タウマシオス」の称号を贈るとともに殉教者の一覧に彼の名前を加えた。しかし、アレクサンドリアのキリスト教徒はアンモニオスが死んだのは彼がエジプト長官を襲撃したからであってその信仰のためではないことを知っており、キュリロスは事件に関して沈黙を保つことを余儀なくされた。
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