ニューヨークとザルツブルクでの欠場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/10 21:41 UTC 版)
「ビルギット・ニルソン」の記事における「ニューヨークとザルツブルクでの欠場」の解説
メトを頻繁に訪れたニルソンではあったが、抜け目ない総監督のビング(ワーグナー嫌いとよく言われていた)や指揮者のカラヤンと意識が合っていたわけではなかった。1970年代初めには、期待されていたよりもニューヨークに出演する回数が減り、ザルツブルク音楽祭(当時カラヤンが芸術監督であった)からも事実上排除された。1970年代の半ばには、米国内国歳入庁からの追徴課税の申し立てによって、米国内では活動休止に追い込まれた。数年後、支払いのスケジュールが立てられてから、米国での活動が再開された。 彼女が戻ってきたとき、ドナル・ヘナハンはニューヨーク・タイムズに「有名な輝くトランペットの音は、まだまだコルネットのようには聞こえない」と書いている。 ニルソンはメトロポリタン歌劇場で16の役を223回演じた。1961-1962シーズンには2回『ニーベルングの指環』全曲演奏を行い、1974-1975シーズンにもう1回演奏している。イゾルデは33回、トゥーランドットは52回である。彼女は他のほとんどの主要なソプラノパートを演奏した。アイーダ、トスカ、リヒャルト・シュトラウス『影のない女』染物師の妻、サロメ、エレクトラ、ヴェルディのマクベスの妻、『フィデリオ』レオノーレ。 1966年、彼女はタンホイザーでヴェーヌスとエリーザベト(一緒に出演することはない)の一人二役を演じている。1975年にはリタ・ハンターがブリュンヒルデを歌いニルソンがジークリンデを歌うという印象的な舞台もあった。 ウィーン国立歌劇場には1954年から82年まで232回出演し、1999年には歌劇場のオーケストラであるウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の名誉会員となった。 ウィーン国立歌劇場の監督であるイオアン・ホレンダーは、「今、かつて本物のスターと呼べる人物がいて、世界的に有名なオペラ歌手だったとしたら、それはニルソン女史だ」と語った。
※この「ニューヨークとザルツブルクでの欠場」の解説は、「ビルギット・ニルソン」の解説の一部です。
「ニューヨークとザルツブルクでの欠場」を含む「ビルギット・ニルソン」の記事については、「ビルギット・ニルソン」の概要を参照ください。
- ニューヨークとザルツブルクでの欠場のページへのリンク