ナビゲーターからプジョー監督へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 15:07 UTC 版)
「ジャン・トッド」の記事における「ナビゲーターからプジョー監督へ」の解説
父親のミニクーパーSを駆って友人と乗り回したのがモータースポーツキャリアの始まりである。 それから、数々のラリーレースで様々な役どころを演じるようになり、自分の力が向いている方向を見定めて後はドライバーの補佐をするコ・ドライバーに専念し、1972年には日産ワークスチームのコ・ドライバーとしてモンテカルロ・ラリーに出場し、ラウノ・アルトーネンとのコンビで240Zを総合3位に導いている。また翌1973年はチーム・トヨタ・アンダーソンでオベ・アンダーソンと組んだ。 その後、1981年までプジョーのラリーチームに身を置き、WRCへの参戦を続けた。現シトロエン・レーシング監督のギ・フレクランと組んだ1981年シーズンには、シリーズ2位を獲得している。 コ・ドライバーを引退した後も、チームは運営部門のスタッフとしてトッドがチームにとどまることを望んだため、レース部門のマネージャーに就任(プジョー・タルボ・スポールの誕生)、1982年からWRCの車体デザイン部門の組織構築を委ねられた。出足は鈍かったが、1984年に投入されたプジョー205T16が1985年になって初のタイトルを獲得すると、翌年も連覇を達成し、トッドによって組織されたデザイン部門から生まれた車体は選手権の支配に成功した。 プジョーはパリ・ダカール・ラリー(4連覇)、ヒルクライムを経てスポーツカー世界選手権へ進出。トッドは監督としてチームを率いて1992年、1993年のル・マン24時間レースを連覇するなど大いに活躍し、ナポレオン、優勝請負人と称されていた。この頃からトッドはF1での仕事を望んでいたが、当時のプジョーはF1への進出を決めかねていた。
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