ドン・アースとは? わかりやすく解説

ドン・アース

(ドン・アーシー から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/25 10:03 UTC 版)

ドン・アース
Don Aase
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地 カリフォルニア州オレンジ
生年月日 (1954-09-08) 1954年9月8日(70歳)
身長
体重
6' 3" =約190.5 cm
210 lb =約95.3 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1972年 ドラフト6巡目
初出場 1977年7月26日
最終出場 1990年10月3日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

ドン・アース(Donald William "Don" Aase、1954年9月8日 - )はアメリカ合衆国カリフォルニア州オレンジ出身のMLBの野球選手(投手)。右投右打。

日本では、ドン・アーシーと表記されることもある[1][2]

経歴

マイナーリーグ時代

1972年、ドラフト6巡目でボストン・レッドソックスに入団。同年はウィリアムズポート・レッドソックス(Williamsport Red Sox)でプレイしたが、0勝10敗、防御率5.81。更に翌年も、ウィンター・ヘイブン・レッドソックス(Winter Haven Red Sox)でプレイして15敗を記録し、フロリダ州リーグの最多敗戦投手となってしまうなど、2年続けて不本意な結果に終わってしまったが、1974年には見事立ち直り、ウィンストン・セーラム・レッドソックスの一員として、勝利、完投、完封の3部門でカロライナ・リーグの1位を獲得。これが評価されてリーグの最優秀投手にも選出された。更にその後、「ポー・ソックス(PawSox)」の愛称で知られる、ポータケット・レッドソックスAAA)へと昇格し、後はメジャーデビューの時を待つのみとなった。

ボストン・レッドソックス時代

1977年7月にメジャー初昇格を果たし、先発ローテーションに入った。ルーキーながらその期待に応え、デビュー戦となった7月26日ミルウォーキー・ブルワーズ戦で勝ち投手となると、5日後のカリフォルニア・エンゼルス戦では完封勝利まで達成した。更に9月5日トロント・ブルージェイズ戦でも完封勝利を記録し、終わってみれば、13試合登板で6勝2敗、防御率3.12に2完封という上々の1年目のシーズンであった。

カリフォルニア・エンゼルス時代

1978年(1年目)は及第点以上の数字を残したアースだったが、シーズン終了後の12月8日に、俊足の二塁手、ジェリー・レミーとのトレードで、カリフォルニア・エンゼルスへと移籍することとなる。エンゼルス移籍後も当初は先発投手と してマウンドに立ち、移籍1年目の1978年には11勝を記録した。翌1979年も主に先発を務めたが、8月半ば以降は、メジャー3年目で初めて、リリーフ投手としても起用されるようになった。リリーフを務めるようになったお陰で、同年のリーグチャンピオンシップシリーズ第3戦では、先発のフランク・タナナを6回からリリーフし、結果的にエンゼルス史上初のポストシーズンでの勝ち投手となった(しかし、アース登板時点で2対1とリードしていながら、6回と7回に1点ずつを与えてしまうなど、内容は決して誉められたものではなかった。試合は9回裏に1点ビハインドのエンゼルスが2点を奪ってサヨナラ勝ちを決めた)。

1980年7月31日のゲームで一つのアウトも取れずに4失点したのを最後に、アースはリリーフ専門の投手となる(それ以降現役引退まで、再びメジャーの先発マウンドを務めることは1試合もなかった)。この試合はアースの通算100試合目の登板でもあったが、この試合を含めての直近5試合で17.2回を投げて33安打を浴び、26失点(24自責点)、防御率12.23という大荒れの状態であったため、先発ローテーションを外れるという形になった(前年に自身初のリリーフ登板を務めた際も、直前の5試合で防御率6.35と不調に陥っていた)。するとリリーフ転向後は別人のように安定した投球を見せ、19試合に登板し、防御率2.08を記録。先発を務めていた際に投球回数を稼いでいたこともあり、シーズン終了時の4.06という防御率は、チームトップの数字だった。

1981年には救援投手として期待が寄せられ、エンゼルス最初のクローザーを務めることとなった。前年にリリーフとして見せた活躍がまぐれではないことを証明するシーズンとなったが、開幕から15試合の登板で防御率0.66、被打率も.208とほぼ完璧な投球を見せた。その後やや失速したものの(24試合で防御率3.55)、シーズンでの成績は39試合の登板で、アメリカンリーグ6位(チームトップ)の11セーブを記録した。また2.34という防御率は、10イニング以上に登板した投手の中ではチームトップの数字であった。

1982年のシーズンも、開幕からリリーフ投手の一角を担い、一時は防御率0点台を記録していたが、7月17日のゲームが同年最後の登板となった。肘の怪我との戦いの始まりであった。

1983年はメジャー登板0に終わった。

1984年6月18日、約2年振りとなるメジャー登板を果たす。復帰後は4試合連続無失点を記録するなど好調をキープし、シーズンでは23試合に登板して防御率はチームトップ(規定投球回如何にかかわらず)の1.62。見事な復活を果たした。

ボルチモア・オリオールズ時代

1984年のシーズン終了後フリーエージェントとなったアースは、ボルチモア・オリオールズへと移籍する。オリオールズでは当時のクローザー・ティッピー・マルティネスが衰えから不調に陥るなど、有力なリリーフ投手が不在であったため、クローザーとして期待がかけられた。ところが開幕から20試合の登板で10度失点するなど、序盤はチームの期待を大きく裏切ってしまった。それ以降の34試合の登板では13セーブ、防御率2.24と本来の調子を取り戻し、シーズン最後の登板となった10月5日デトロイト・タイガース戦では10勝目を挙げ、6年振りに2桁勝利を達成したが、2年振りのワールドシリーズ制覇を目指していたチームに大きな貢献をすることは出来なかった。ただし登板数54はチームトップの数字だった。

1986年、アースにとって最高のシーズンが訪れる。この年も開幕からクローザーを任されたアースは、前年の開幕直後とは打って変わって好投を続け、前半戦で39試合に登板し、23セーブ、防御率2.42という数字を残した。これが評価され、自身初のオールスターゲームにも出場を果たす。試合は9回裏、8回裏に2点を返して1点差に迫り、なおも勢いづくナショナルリーグ・オールスターの攻撃は1アウトでランナーが一、三塁。このピンチの場面でアースにマウンドが託された。外野フライでも同点、長打が出れば一気にアメリカンリーグ・オールスターは逆転サヨナラ負けという緊迫した状況だったが、落ち着いた投球を見せ、この試合で二塁打を放っていたクリス・ブラウンを内野ゴロに打ち取り、ダブルプレーで試合を締めた。この結果、オールスターでもセーブを記録した。
ところが、8月頃から徐々に登板過多のためか疲れが見え始め、8月28日にはオークランド・アスレチックスとのダブルヘッダーで、2試合とも敗戦投手となる。一日に2敗を喫するというのは、オリオールズの投手史上初という不名誉な記録だった。更に9月8日のゲームでは2回を投げて6失点と炎上し、遂に防御率が3点台となった。その後最後の意地を見せ、前年同様シーズン最後の登板となった10月5日デトロイト・タイガース戦で1回を無失点に抑え、防御率2.98でシーズンを終えるが、前半戦と比べると後半戦は不本意な数字に終わってしまった(27試合で防御率3.65、11セーブ)。それでもチームトップ(アメリカンリーグ5位)の66試合に登板し、ティム・ストッダードが1980年に記録した26セーブを大幅に上回る34セーブ(アメリカンリーグ2位)を記録。この数字は1999年にグレッグ・オルソンが36セーブを記録するまで、オリオールズのチーム記録だった。

1987年に再び試練の時が訪れる。前年の好成績を受けて開幕からクローザーとしての働きを期待されていたが、開幕戦で白星を挙げた以降は過去2年間の勤続疲労が出たのか、肩の怪我に悩まされるようになった。4月14日の次の登板が5月13日になるなど、投げることすらままならない状態に陥ったため、5月23日の登板を最後に肩の手術を受けるためシーズンを終えた。

1988年のシーズンは、前年に早い段階で手術を受けたことが功を奏し、5月10日テキサス・レンジャーズでメジャー復帰を果たす。しかし復帰戦で一つのアウトも取れずに4失点を喫すると、その後も1986年のような安定感は見られず、前半戦終了時点では防御率6.53という数字だった。ところが後半戦に入ると一転して安定した投球を見せ、防御率2.08を記録した。

ニューヨーク・メッツ時代

前述の通り1988年の後半戦では好投を続けたが、オリオールズはアースが当時34歳となっていたことや怪我の再発のリスクを恐れて、10月に解雇される。フリーエージェントとなったアースは実に4ヶ月半に渡って新たな所属先を捜し求めた。

1989年2月20日、ようやくニューヨーク・メッツとの契約に漕ぎ着ける。メッツでは以前同様リリーフを務めることとなり、開幕戦で2回を無失点に抑えたのを皮切りに、前半戦で29試合に登板し、防御率2.55と前年の後半戦の好調を新天地でもキープした。ところが、またもや後半戦では失速。20試合の登板で防御率6.00という炎上振りだった。シーズンでは抑えのランディ・マイヤーズに次ぐチーム2位の49試合登板となったが、他の主だったリリーフ投手が揃いも揃って安定した投球を見せたため、最終的には存在感を示すことは出来なかった。メッツも他の投手の投球を見て不要と判断したのか、メッツでのプレイはこの1年間だけとなった。

ロサンゼルス・ドジャース時代

1990年2月20日ロサンゼルス・ドジャースと契約する。ドジャースでも救援投手の一角を担う存在として開幕を迎えるが、春に7試合連続無失点を記録した次の試合で失点して防御率が3点台に達すると、その後は目立った活躍が出来ず、6月終了時点で防御率は3.62。7月は休養のため1試合にも登板しなかったが、8月下旬に復帰してからも9試合で防御率6.75と、いよいよ限界を感じさせる内容だった。

自身最後の登板は10月3日サンディエゴ・パドレス戦。0.1回を投げて2失点と、有終の美を飾ることは出来なかった。

人物

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1977 BOS 13 13 4 2 0 6 2 0 0 .750 373 92.1 85 6 19 1 1 49 0 0 36 32 3.12 1.13
1978 CAL 29 29 6 1 0 11 8 0 0 .579 773 178.2 185 14 80 4 2 93 3 0 88 80 4.03 1.48
1979 37 28 7 1 0 9 10 0 0 .474 817 185.1 200 19 77 7 1 96 5 0 104 99 4.81 1.49
1980 40 21 5 1 1 8 13 2 1 .381 761 175.0 193 13 66 3 1 74 2 1 83 79 4.06 1.48
1981 39 0 0 0 0 4 4 11 3 .500 265 65.1 56 4 24 2 0 38 1 0 17 17 2.34 1.22
1982 24 0 0 0 0 3 3 4 1 .500 212 52.0 45 5 23 2 0 40 2 0 20 20 3.46 1.31
1984 23 0 0 0 0 4 1 8 0 .800 160 39.0 30 1 19 5 0 28 0 0 7 7 1.62 1.26
1985 BAL 54 0 0 0 0 10 6 14 0 .625 366 88.0 83 6 35 7 1 67 0 1 44 37 3.78 1.34
1986 66 0 0 0 0 6 7 34 0 .462 337 81.2 71 6 28 2 0 67 4 0 29 27 2.98 1.21
1987 7 0 0 0 0 1 0 2 0 1.000 33 8.0 8 1 4 0 0 3 0 0 2 2 2.25 1.50
1988 35 0 0 0 0 0 0 0 2 ---- 209 46.2 40 4 37 5 0 28 1 0 22 21 4.05 1.65
1989 NYM 49 0 0 0 0 1 5 2 9 .167 261 59.1 56 5 26 3 1 34 0 1 27 26 3.94 1.38
1990 LAD 32 0 0 0 0 3 1 3 2 .750 163 38.0 33 5 19 4 0 24 3 0 24 21 4.97 1.37
MLB:13年 448 91 22 5 1 66 60 82 18 .524 4730 1109.1 1085 89 457 45 7 641 21 3 503 468 3.92 1.39

年度別守備成績



投手(P)












1977 BOS 13 5 13 1 0 .947
1978 CAL 29 16 23 3 2 .933
1979 37 8 17 2 3 .926
1980 40 10 22 4 2 .889
1981 39 2 10 1 1 .923
1982 24 3 5 0 0 1.000
1984 23 1 5 1 0 .857
1985 BAL 54 8 10 0 0 1.000
1986 66 5 12 1 1 .944
1987 7 0 1 0 0 1.000
1988 35 2 3 0 1 1.000
1989 NYM 49 6 8 0 0 1.000
1990 LAD 32 1 3 0 0 1.000
MLB 448 67 135 13 10 .940

背番号

  • 45 (1977年)
  • 46 (1978年 - 1984年)
  • 41 (1985年 - 1988年)
  • 49 (1989年)
  • 22 (1990年)

脚注

  1. ^ 『米大リーグ26球団総ガイド』、(株)ベースボール・マガジン社、1978年4月23日、108頁、雑誌 0447-4/23。 
  2. ^ 『米大リーグ26球団総ガイド '80年度版』、(株)ベースボール・マガジン社、1980年5月11日、115頁、雑誌 20447-5/11。 

関連項目

外部リンク





固有名詞の分類

アメリカ合衆国の野球選手 ルーク・アップリング  カルロス・ミラバル  ドン・アース  ハリー・フーパー  亀田忠
ボストン・レッドソックスの選手 ジョナサン・パペルボン  フレッド・リン  ドン・アース  ハリー・フーパー  アレックス・コーラ
ロサンゼルス・ドジャース及びブルックリン・ドジャースの選手 エリック・ミルトン  ジェフ・クベンカ  ドン・アース  D.J.ホールトン  ハーマン・リベラ
ニューヨーク・メッツの選手 ケビン・マクレイノルズ  ヘンリー・ブランコ  ドン・アース  アレックス・コーラ  ジョン・メイン
ボルチモア・オリオールズの選手 フレッド・リン  センディ・レーアル  ドン・アース  マーク・アイクホーン  ジョン・メイン
ロサンゼルス・エンゼルス及びその前身球団の選手 リー・スミス  フレッド・リン  ドン・アース  ケビン・フランドセン  マーク・アイクホーン

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