ドミトロフの開基と最盛期とは? わかりやすく解説

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ドミトロフの開基と最盛期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 06:57 UTC 版)

ドミトロフ」の記事における「ドミトロフの開基と最盛期」の解説

この地はかつてフィン・ウゴル系民族のメリャ人が住む地だったが、1154年ユーリー・ドルゴルーキー公がドミトロフ建設したとされる深い森中にあったこの地は、ユーリー息子フセヴォロド(洗礼名ドミートリー守護聖人は聖デミトリオス)が生まれた場所で、その誕生に伴い町が建設された。 13世紀にはモスクワ公国トヴェリ公国ペレスラヴリ・ザレスキー公国という北東ルーシの相争う諸公国の境界集中する場所であり、1301年には北東ルーシ諸公会合が行われている。軍事上の要地であるだけでなく、ヤフロマ川や連水陸路通じて、南のクリャージマ川沿いのウラジーミルの都と北のヴォルガ川沿いの諸都市を結ぶ交易の町でもあった。12世紀建設以来諸公同士戦争何度も略奪されたほか、1238年1293年にはモンゴル帝国による略奪受けている。ドミトロフ自体ははるか北のガーリチ=メルスキー公国属していたが、ガーリチドミトロフ分裂の後、1364年モスクワ大公国併合された。ドミートリー・ドンスコイとその孫ヴァシーリー2世ドミトロフ息子たち分領として与えており、長らくドミトロフ小さな分領の都であったイヴァン3世息子ユーリー・イヴァノヴィチドミトロフ公だった時期1503年 - 1533年)、ドミトロフ最盛期迎えた。町のクレムリンには黒いドーム頂いた生神女就寝大聖堂建てられ、聖ボリスとグレブ修道院もこの時期建てられた。ドミトロフ商人たちドミトロフ公の権力後ろ盾得て盛んに活動し北方地方穀物などを売り代わりに得た毛皮、塩、などをモスクワへ運び、さらにヴォルガ川水系通じてカスピ海沿岸とも交易していた。ユーリー公が逮捕投獄されると、ドミトロフは弟のスターリツァアンドレイ・イヴァノヴィチ与えられた。

※この「ドミトロフの開基と最盛期」の解説は、「ドミトロフ」の解説の一部です。
「ドミトロフの開基と最盛期」を含む「ドミトロフ」の記事については、「ドミトロフ」の概要を参照ください。

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