トルコ軍陣地への突入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/25 09:50 UTC 版)
「スランカメンの戦い」の記事における「トルコ軍陣地への突入」の解説
今やバーデン=バーデン辺境伯は、自ら左翼の部隊を再編した。これまで混成されていた、デューネヴァルト元帥指揮下の歩兵と騎兵から騎兵部隊を左の方へ抽出し、ホルシュタイン公の予備騎兵部隊をもってこれを増強したのである。統合された皇帝軍の騎兵は続く攻撃において、襲撃に失敗して、二つの大きな集団に分かれていたトルコ騎兵に襲いかかった。トルコ騎兵の再編はまだ完了していなかったので、皇帝軍の攻撃に対し、組織的な抗戦をもって応じることができなかった。最初の激突の後、トルコ騎兵の一部が西方へ逃亡した一方、大部分は友軍の陣営とその防衛施設に逃げ込む。今や皇帝軍の左翼集団は、無防備となったオスマン軍の側面から大ワズィールの陣営を攻撃することができた。当初はイェニチェリも全方向に対して防戦することができたが、戦いの中でキョプリュリュ・ムスタファ自身が命を落とすと、彼らの間でも恐慌が発生する。夜が来るまでに、皇帝軍はオスマン軍の陣営がある一帯で全ての敵を殺害した。戦死者にはイェニチェリの司令官と15名の隊長の他、18名のパシャが含まれていた。 オスマン軍の陣営は、輜重・大砲の全て(158門)とともに皇帝軍の手に落ちた。皇帝軍の損害は7,000名に上り、甚大であったが、オスマン軍は実質的な戦力の半数にあたる25,000名を失っている。オスマン軍の残りは潰走し、再び集結するまでに数週間を要した。辺境伯ルートヴィヒは誇りつつ、大ワズィールの戦旗や、全てのパシャの旗を奪取できたと報告した。彼が捕虜の証言から、戦死者の中にキョプリュリュ・ムスタファ自身が含まれていることを知ったのは後のことである。ほどなくしてニュルンベルクのゲオルク・ハウチュが制作したメダルには、戦利品として牡牛10,000頭、天幕10,000張り、ブンチューク4本、戦旗14本、馬5,000頭、騾馬と駱駝合わせて2,000頭が挙げられている。
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