デイビス対プリンスエドワード郡教育委員会事件
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「プリンスエドワード郡 (バージニア州)」の記事における「デイビス対プリンスエドワード郡教育委員会事件」の解説
郡内では「デイビス対プリンスエドワード郡教育委員会事件」の裁判が行われた。この事件は「ブラウン対教育委員会裁判」に取り込まれ、最終的には国内公立学校の人種差別撤廃に繋がっていった。「ブラウン対教育委員会裁判」判決に従った判決の出された5例の中で、「デイビス対プリンスエドワード郡教育委員会事件」は唯一生徒自身が始めたものだった。1951年、ジム・クロウ法の下で人種分離された学校から、生徒が過密とお粗末な状態に抗議して教室から出て行った。 全員が黒人のR・R・モートン高校は、隣接するアメリア郡出身の著名教育者ロバート・ルッサ・モートンに因んで名付けられていた。この高校には体育館、カフェテリア、教師の休憩室も無かった。生徒数が増えたために、ベニヤ板の建物3棟が造られ、外に駐車されている動かないスクールバスで授業を受ける者もいた。教師と生徒には机や黒板も無く、資金を要求する学校の訴えは、全員が白人で構成される教育委員会に否決された。1951年4月23日月曜日、バーノン・ジョンズ牧師の姪で16歳のバーバラ・ジョンズが他の生徒を引き連れ、その状態に抗議してウォークアウトを行った。全米黒人地位向上協会がこの事件を取り上げたのは、生徒達が1票差で、黒人学校の条件改善よりも人種統合された学校を求めると決めた時だった。ハワード大学で訓練を受けた弁護士スポッツウッド・R・ロビンソンとオリバー・ヒルが訴訟を起こした。 「デイビス対プリンスエドワード郡教育委員会事件」では、州裁判所が訴訟を拒否し、被告側弁護士T・ジャスティン・ムーアと、バージニア州は黒人と白人の生徒を平等に扱っていることで合意した。州の裁定はアメリカ合衆国地区裁判所に控訴され、地区裁判所は原告有利の判決を出し、これに対して教育学区と州が控訴した。その後「ブラウン対教育委員会裁判」に取り込まれた5例の1つとなり、1954年に国内の学校人種差別を否定する画期的な判決となった。
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