チェコスロバキア成立と路線への影響
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「ズヴォレン - コシツェ線」の記事における「チェコスロバキア成立と路線への影響」の解説
第一次世界大戦では、バーンレーヴェ - フュレク線およびドブシナ - バーンレーヴェ線のターミナル駅であるバーンレーヴェ村付近がチェコスロバキアとハンガリーの国境となった。 バーンレーヴェ鉄道駅は当初ハンガリー側の管理下に置かれ、ドブシナ - バーンレーヴェ線および同線ペルソーツ(スロバキア名・プレシヴェツ)鉄道駅から分岐するペルソーツ - ムラーニュ線(現・プレシヴェツ - ムラーニュ線、TTP路線番号:111 C)とペルソーツ - ナジュサボス線(現・プレシヴェツ - スラヴォショウツェ線、TTP路線番号:111 B)の全線が運行不能になったあと、チェコスロバキア軍がバーンレーヴェ鉄道駅を占領して運行が再開されたが、1919年9月のチェコスロバキア共和国独立確定に伴い、バーンレーヴェ村がハンガリー領となることが決まったため、バーンレーヴェ鉄道駅は1919年12月15日付けでMÁVに引き渡され、再び運行不能となった。ドブシナ - バーンレーヴェ線および2支線区はチェコスロバキア国内のどの鉄道線からも孤立する事態となった。 チェコスロバキア領内のMÁV線を承継したチェコスロバキア国鉄(ČSD)は、自動車輸送でイェセンスケー - ブレズノ線チソヴェツ鉄道駅から自動車輸送でプレシヴェツ - ムラーニュ線ムラーニュ鉄道駅に郵便物および食料品を運び込んだあと、残存区間に引き上げた車両を用いてムラーニュ発プレシヴェツ経由ドブシナー行臨時列車を2週間に1本のペースで運行したが、輸送経費は通常よりも高く、また石炭の輸送はできなかった。1920年2月になってハンガリー側はČSD列車のバーンレーヴェ経由を認めるとし、同年2月15日からドブシナーへの列車運行が再開されたものの、経由可能な列車には厳しい条件が課せられた。 このためチェコスロバキア政府は、いずれもバーンレーヴェ鉄道駅の隣駅で、ズヴォレン方の国境駅となったレナルトウツェ鉄道駅と、ドブシナー方の国境駅となったアボウツェ鉄道停留場間に、ハンガリー領内を経由しない短絡線(停車場間距離2.71km)の建設を計画。1920年9月に着工し、同年12月29日に運用を開始した。旧線となったバーンレーヴェ - アボウツェ間のチェコスロバキア領内の区間は直ちに撤去され廃止された。 その上で、ズヴォレン方はフィリャコヴォ - ズヴォレン間とレナルトウツェ - フィリャコヴォ間、アボウツェ - レナルトウツェ間短絡線、プレシヴェツ - アボウツェ間を統合してプレシヴェツ - ズヴォレン線に、プレシヴェツ以北はドブシナー - プレシヴェツ線にそれぞれ再編した。 一方コシツェ方でも、国境によってミシュコルツ方と分断されたフェルショーゾルツァ - カッシャ線のうち国内区間のコシツェ - バルツァ間とバールツァ - トルナ線を統合し、コシツェ - トゥルニャナッポドヴォウ線に再編した。
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