チェウリンの没落
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「ウォーデンズ・バロウにて大虐殺があり、チェウリンは追いやられた」 — アングロサクソン年代記、592年 「ここにチェウリン、クウィチェルム、クリダは死んだ」 — アングロサクソン年代記、593年 592年、チェウリンは王位を失った。ウォーデンズ・バロウ (Woden's Barrow) は現在ではアダムズ・グレイブ (Adam's Grave) と呼ばれている、ウィルトシャーのアルトン・プライアー(Alton Prior)にある古墳と考えられている。チェウリンの敵が誰であったのかは記録に残っていない。1120年の中世の史家マルムスベリーのウィリアムの記述によると「アングル人、ブリトン人双方の謀略ゆえ」と書かれている。もうひとつの敵の可能性として、『西サクソン王族系譜目録』では次の王として6年の在位となったと書かれているチェオルが挙げられる。年代記によると退位から翌年チェウリンは死去したとなっており、記述では「ここにチェウリン、クウィチェルム (Cwichelm)、クリダ (Crida) は死んだ」となっているが、クウィチェルム、クリダが何者であるかを記す記述は何もない。だが、名前の韻からチェウリンらがウェセックス王族の一員だったろうとは考えられている。 『西サクソン王族系譜目録』ではチェオルはキュンリッチの息子であるクタの息子、そしてその兄弟はチェオルウルフ(チェウリンの後の7年間王位に就くこととなる)となっている。チェウリンの死によって西サクソン人の部族にいくらかの分裂が起こった可能性はあり、チェオルとチェオルウルフは同時期にテムズ川渓谷流域を巡ってウィルトシャーで対立していたことも考えられ、またこのウェセックスの分裂が結果的にエゼルベルトが台頭、南イングランドに覇を唱える手助けをしてしまった可能性もある。しかしながら、年代記にはチェウリンの死後も数十年間ウェセックスはエセックス、サセックスに対して軍事行動を起こしていた記述が見られることから、軍事的にはウェセックスはまだ影響力を保持していたものと考えられている。
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