タシケント日本人墓地整備の歴史とは? わかりやすく解説

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タシケント日本人墓地整備の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/17 20:57 UTC 版)

タシケント抑留日本人墓地」の記事における「タシケント日本人墓地整備の歴史」の解説

当初現地埋葬されていたが、ソヴィエト連邦崩壊後遺族関係者及びウズベキスタン政府の手により、市営ヤッカサライ墓地内の日本人墓地ウズベキスタン亡くなった日本人抑留者の共同墓地として再整備された。 ヤッカサライ墓地日本人埋葬される経緯は、ヤッカサライ墓地の横を走る鉄道工事従事していた日本人抑留者が病気亡くなり、この墓地埋葬したことから徐々に亡くなった抑留者が埋葬されるようになったという。 他方ソヴィエト連邦政府は、1958年ウズベキスタン存在した15か所の抑留日本人墓地閉鎖命令した。そして、日本人墓地は一共和国あたり2か所とし、それ以外更地にせよとの内容であったウズベキスタンではカガンコーカンドの2地区日本人抑留者の墓地として維持監理続けられた。 1978年になり、帰国した抑留者及び抑留者の縁戚関係者の渡航解禁され墓地整備下地作られた。本格的な抑留日本人墓地整備1983年福島県ウズベキスタン文化経済友好協会親善使節団がウズベキスタン訪問したことに始まる。10年後の1990年交流10周年記念共同事業として福島県ウズベキスタン文化経済友好協会親善使節団が再訪し、タシケント日本人墓地鎮魂碑建立された。 ウズベキスタン独立後の1994年には、アングレン日本人墓地整備され、翌1995年タシケント日本人墓地ウズベキスタン全土日本人合同鎮魂碑建立された。また、2001年には中山成彬衆議院議員中心となり「日本人墓地整備鎮魂の碑建設発起人の会」が設立され日本全国募金活動が行なわれた。 2002年ウズベキスタン全ての日本人墓地整備完了し5月25日にはベガバード市の日本人墓地において鎮魂碑除幕式が、タシケント市では日本人抑留記念碑除幕式が行われた。日本からは中山議員及び自民党政務調査会長当時であった麻生太郎元首相出席した2009年には平岡大使アングレンコーカンドフェルガナアンディジャン日本人墓地への墓参行っている。

※この「タシケント日本人墓地整備の歴史」の解説は、「タシケント抑留日本人墓地」の解説の一部です。
「タシケント日本人墓地整備の歴史」を含む「タシケント抑留日本人墓地」の記事については、「タシケント抑留日本人墓地」の概要を参照ください。

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