センピル飛行団招聘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/12 18:01 UTC 版)
海軍航空は最初期のパイロット、相原四郎が独国、金子養三が仏国、河野三吉が米国に留学して操縦技術を学び、第一次世界大戦において実戦参加を果たした。しかしその水準は戦闘よりも飛ぶこと自体を目的としている段階であり、同大戦中の欧米各国の進歩に遅れをとっていた。具体的には、第一次世界大戦では、爆弾は紐を切って落下させ、敵機との対戦は拳銃で戦う予定であり、1920年(大正9年)に実施された追浜、佐世保間の無着陸飛行が「有史以来の大壮挙」であった。そうした中、大関は英国から教師団を招くことを強硬に主張した。これは従来の留学生を諸国に送る方法ではなく、教師団を招聘することで、多数の人員に技術講習を行うことができるという判断に基づいていた。また主流であった仏国式航空から英国式航空への転換をも図ったのである。大関の主張は上層部に容れられ、1921年(大正10年)にセンピル大佐(William Forbes-Sempill)を団長とするセンピル飛行団の招聘が実現した。その成果は技術面にとどまらず、海軍航空作戦の基本概念を一変させるものであった。なおこの時に講習を受けたのが大尉であった大西瀧治郎、吉良俊一、千田貞敏、三木森彦らである。
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