セミステンレスカー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 07:22 UTC 版)
1950年代末から1960年代にかけての札幌市交通局は、後にゴムタイヤ式地下鉄の生みの親となる名物局長(交通事業管理者)、大刀豊(だいとうゆたか)の大刀イズムが目立つ。後に「札幌スタイル」と呼ばれることとなる同時期のスマートな市電、世界的にも稀な路面電車型の気動車(D1000形を嚆矢とするグループ)、試行錯誤を繰り返して完成したパッセンジャーフローシステムの連接車、そしてゴムタイヤ式高速電車の試作(後の同市営地下鉄)に至るまで、同局の独自性を存分にアピールしていた時期でもあった。 その中にあっても1958年(昭和33年)頃から導入が始まったセミステンレスボディーの観光バスや寝台バスは、とにかく異彩を放つ存在であった。セミステンレスバスは、グレイハウンドなど、アメリカの長距離バスではおなじみのものであったが、日本では、その硬く伸びにくい特性ゆえ、加工性が悪いことや、耐用年数の面でも過剰品質であることなど、否定的な見方が大勢を占めていた。しかし、錆や塗装の補修がいらないというメリット以上に、見る者に与えるインパクトは非常に大きく、「新しさ」の表現には打って付けであった。これらはエアサスペンション、カーラジオ、メトロ窓、屋根肩のサンルーフなど、最新の装備を備えていた一方、車体外板に入ったプレスによるリブ(コルゲートとは外観が異なる)が目立つ以外は普通鋼の車体と変わらず、構造もモノコック式であり、際立つ外観とは異なり非常に保守的である。 シャシメーカーはトヨタとふそうを除いた3社で、民生車は「しらかば」と「だけかんば」、いすゞ車は「はるにれ」と「すずかけ」、日野車は「はまなす」と「こぶし」など、北海道らしい愛称がそれぞれ付けられていた。
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