セア導入後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/19 15:14 UTC 版)
その後、スーパースター王座決定戦も制覇した田代は選手としてのピークを迎えていた。しかし、「フジ」末期には大きく調子を落とした時期もあり、地元エースの座を転落するなど、それまで見せたことのない衰えを見せ始める。更に、新エンジン「セア」の導入が、その後の田代に大きな影響を与えることとなった。 セアの導入当初、田代はそれ以前のフジの頃の好調を維持していたかに見えた。しかし、その好調が仇となった。田代の最大の持ち味である強引な突っ込みがしにくいセアは田代向きではなかったのである。なまじ好調であったがゆえに、その点に気付くのが遅れてしまった。 そして、セア乗り換え当初は不振が続いていた同期の岩田行雄が徐々に復調の兆しを見せていくのに対して、田代は徐々に不振に喘ぐこととなってしまった。 もう一つが、自分のことを「兄ィ」と慕っていた中村政信の殉職である。彼の殉職以降、田代は目に見えて調子を崩していた。それまで、勝つためならどんなに危険な走りも厭わなかった田代が、走る事に恐怖を感じるようになってしまったのである。しかし、この恐怖は一時的なものに過ぎなかった。やがてその恐れを自ら拭い去った田代は、徐々に復調の兆しを見せていった。 しかし、時を同じくして伊勢崎では高橋貢が台頭。これにより田代の存在は一部の熱狂的ファンを除いて完全に霞んでしまった。 現在、伊勢崎オートレース場と飯塚オートレース場の所属選手の一部は落車時に頚椎を保護する特殊なエアバッグを装備している。この開発にあたっては、田代の協力が大きかったとされる。当初から田代に依頼をしていたそうだが、田代自身は余り乗り気ではなかった。しかし、上述した中村政信の殉職がきっかけとなり、この開発に協力した。現在このエアバッグは徐々にではあるが選手間で広がりつつある。
※この「セア導入後」の解説は、「田代祐一」の解説の一部です。
「セア導入後」を含む「田代祐一」の記事については、「田代祐一」の概要を参照ください。
- セア導入後のページへのリンク