スラブ・ブルガリア・モラビアのキリスト教改宗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 09:29 UTC 版)
「古代末期のキリスト教」の記事における「スラブ・ブルガリア・モラビアのキリスト教改宗」の解説
しかし、9世紀半ばにはスラブ人もブルガリア人もキリスト教(ギリシア正教)を受け入れて、ビザンツ世界の一員となった。東スラヴ人の宗教は、稲妻の神ペルーンや、太陽神ホルスとダジボグ、風の神ストリボグ、女神モコシ、財産の神ヴォロス、火の神スヴォログなどを信仰したものだった。しかし、キエフ大公国のウラジーミル1世が988年にキリスト教に改宗して、キリスト教を国教とすると、スラヴ伝統宗教は破壊された。スラヴ族への宣教は、ビザンツのコンスタンティノープル総主教、ローマ教皇、独自の活動を行っていたフランク教会が行った。 大モラヴィア国では、831年にモイミル侯がフランク教会の元で洗礼を受けていた。しかし、ラスチスラフ王はフランク王国の影響が強くなることを恐れて、ビザンツ帝国にキリスト教伝道師の派遣を求めた。863年にビザンツ行政長官で修道士のメトディオスと外交官のキュリロス兄弟がモラヴィアに派遣され、スラヴ文字(グラゴル文字)をつくり、スラヴ語訳聖書をつくった。 9世紀にはブルガリア王国が連れ帰ったビザンツ帝国の捕虜から、ブルガリアにキリスト教が広まり、864年にはボリス・ハンがビザンツから受洗し、キリスト教がブルガリアの国教となった。 東欧地域は、カトリック圏(ポーランド、チェコ、ハンガリー、スロベニア、クロアチア)と東方正教圏(ロシア、ウクライナ、ブルガリア、セルビア、ルーマニア)に分かれていった。
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