ジョセフ・ブラックとは? わかりやすく解説

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ブラック【Joseph Black】

読み方:ぶらっく

1728〜1799]英国化学者フランス生まれ。普通の空気異な気体として二酸化炭素初め区別し化学反応定量的明らかにした。また熱現象研究し潜熱比熱発見


ジョゼフ・ブラック

(ジョセフ・ブラック から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/16 13:08 UTC 版)

ジョゼフ・ブラック
生誕 (1728-04-16) 1728年4月16日
フランスボルドー
死没 (1799-12-06) 1799年12月6日(71歳没)
スコットランドエディンバラ
国籍 スコットランド(グレートブリテン王国)
研究分野 医学、物理学、化学
研究機関 グラスゴー大学エディンバラ大学
出身校 グラスゴー大学、エディンバラ大学
博士課程
指導教員
ウィリアム・カレン
主な指導学生 ジェイムズ・エドワード・スミス、ウィリアム・クレグソン、ウィリアム・アーヴィン
主な業績 二酸化炭素の発見、比熱・潜熱概念の確立、化学の定量的手法の普及・啓蒙
影響を
受けた人物
ウィリアム・カレン
影響を
与えた人物
ジェームス・ワット
プロジェクト:人物伝
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ジョゼフ・ブラック(Joseph Black、1728年4月16日 - 1799年12月6日[1])は、スコットランド物理学者化学者潜熱熱容量概念の確立や二酸化炭素の発見者として知られる。1756年から10年間グラスゴー大学で医学と化学の教授を、1766年から30年余りエディンバラ大学で医学と化学の教授をつとめ、化学の定量的手法、熱学の進歩普及に貢献した。

生涯

ジョゼフ・ブラックは1728年4月16日、フランスボルドーで生まれた。父ジョン・ブラックはスコットランド系でアイルランドアルスターベルファスト出身のワイン商人で、ボルドーに拠点を持っていた。母マーガレットはスコットランド・アバディーンシャー州出身で、やはりワイン商人の家系であった[1]

ジョゼフは12歳からベルファストのグラマースクールでラテン語、ギリシャ語などを学び、1744年の16歳のときグラスゴー大学へ入り、リベラル・アーツを学んだ。1747年に赴任してきた医学教授ウィリアム・カレンの講義を聞き、医学と化学に強い興味を持ち、医学の道へ進んだ。ブラックはカレンの実験助手を数年間つとめている。

ブラックは1752年、医学をさらに学ぶためエディンバラ大学へ移った。1756年に、解剖学と植物学の教授としてグラスゴー大学へ帰り、翌年に医学の教授となった。師のカレンは1755年にエディンバラ大学の医学の教授となっていた。

グラスゴーでは熱に関する研究を行い、熱容量潜熱の概念を確立した。当時同大学の数学機器メーカーであったジェームズ・ワットとも親しく、ワットが蒸気機関の開発や起業を行う際の良き相談者、支援者でもあった。

ブラックは1766年に、カレンの後をついでエディンバラ大学の医学と化学の教授となり、1797年まで多くの受講者を引きつけた講義を続け、化学の普及に大きく貢献した。

ブラックは、デイヴィッド・ヒュームアダム・スミスジェームズ・ハットンなど、スコットランド啓蒙主義英語版の多くの知識人たちとも交友があった。ヒュームの主治医として最期を看取り、アダム・スミスの遺稿をハットンと共に編集した。ブラック自身は、小児期の感染症による肺疾患や後年ではリューマチで苦しみ、決して健康ではなかった。

1799年12月6日にエディンバラで死去し、フランシスコ会修道士墓地に埋められている。

研究

ブラックが「マグネシアアルバ」(炭酸マグネシウム)の化学的研究を始めたのはグラスゴーにいた1750年から1752年頃であり、その後エディンバラで医学博士論文としてそれを提出した。その中に、今日二酸化炭素と呼ばれている「固定空気」の発見も含まれている。 マグネシアアルバや白亜(炭酸カルシウム)の加熱処理や生成物の酸/アルカリ処理に際して、ブラックは質量の変化を注意深く正確に測定し、今日の定量的化学実験のさきがけとなっている。

1756年に教授としてグラスゴーへ帰ってすぐに、ワットと知り合った。ワットが手がけていたニューコメン機関の改良は、ブラックにとっても刺激となったようで、彼はこの後、潜熱、熱容量などの熱に関する研究を進めた。

ブラックは熱の量(熱量)と熱の強さ(温度)との区別を明確にし、物質の持つ力学的属性(質量)のほかに、熱的属性としての熱容量(または比熱)の概念を導入した。

ブラックはまた、融点にある氷に熱を加えても氷/水混合物の温度は上昇せず、混合物中の水の量が増えるだけであることを見つけた。さらに、沸騰している水に熱を加えても、同様に水/蒸気混合物の温度は上昇せず、蒸気の量が増えるだけであることも見出した。これらの観測をもとに、このとき加えた熱は氷および沸騰水と結合し、このために表面に出てこないとの結論(潜熱概念)に達した。

熱の実体について、ブラック自身は実証主義を貫き、「熱は何であるのか」についての態度決定は避けたとされている。しかし、彼の一連の定量的概念は、流体としての熱物質(「熱素」または「火の粒子」)という観点にはよく適合するのに対して、熱運動論との関連付けは、当時の物理学の現状では不可能であった。客観的に見て、ブラックの理論がその後の熱物質説(熱素説)を助長した。ブラックの当時学生であったウィリアム・クレグホンやウィリアム・アーヴィンなどが、その後熱素説を展開することになった[2]

脚注

  1. ^ a b Joseph Black, M.D.”. University of Glasgow. 2025年4月16日閲覧。
  2. ^ 山本義隆『熱学思想の史的展開(熱とエントロピー)1、ちくま書房、2008年、pp.314-337


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