ジャンピエール・ウィミーユ(フランス)
その時期、多くが輩出したなかでも、1930年代のフランスの最高のドライバーと称された。彼自身、イタリアのバルツィから多くを学んだが、40年代の後半にはファンジオが彼を目標としたことで知られる。30年代の初期にはブガッティやアルファを買ってレースを走ったが、34年からはブガッティのワークスチームに加わった。それはちょうど750kgフォーミュラといわれた時代と、時のファシスト政府の支援を受けたドイツ・チームの隆盛、そしてブガッティの側はタイプ59をもってしても彼らに歯が立たなくなる時代にあたっていた。ウィミーユはその不利なマシンに乗って、しばしばドイツ勢を脅かす活躍をみせた。第2次世界大戦中はブノワなどとともにレジスタンス運動に参加、幾度も窮地に陥りながら、それを脱したと伝えられる。戦後はおもにアルファロメオでレースに復帰したが、49年にアルゼンチンで行われたレースのプラクティスで事故死した。その前に3座席、中央にステアリング、ミッドエンジンという革新的な自動車の試作を行い、量産することを目指していたが、この計画も彼の死によって中止のやむなきに至った。試作車はランスの博物館に保管されている。
- ジャンピエール・ウィミーユのページへのリンク