サルデーニャのロンバルディア進攻をめぐって
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「ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)」の記事における「サルデーニャのロンバルディア進攻をめぐって」の解説
1848年革命の影響で北イタリアをはじめとするオーストリアの支配地域でも続々とナショナリズム蜂起が発生した。自由主義者のパーマストン卿は、これまでもオーストリアのメッテルニヒ体制が自由主義や民族主義を弾圧しながら異民族の地を統治していることを批判的に見ていたが、それらの地が収まっている間はあえて介入する意思はなかった。だがこのような騒乱状況となった今、ロンバルディアはサルデーニャ王国に割譲し、ヴェネトにも自治権を認めることでイタリア民族主義に譲歩すべきと考えるようになった。一方でパーマストン卿はイギリス以外の国がイタリア問題に介入してくることを嫌い、フランス臨時政府にサルデーニャに加担しないよう釘を刺すことも忘れなかった。 1848年秋頃には早くも革命に衰退の兆しが見られるようになり、パーマストン卿は革命が完全に鎮静化する前にブリュッセルなど自由主義的な土地でイタリア問題に関する国際会議を開催しようとしたが、1858年12月にはオーストリアで皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と首相兼外相フェリックス・シュヴァルツェンベルク侯爵の保守的で反英的な体制が成立したため、うまくいかなかった。 一方サルデーニャ国王カルロ・アルベルトは1849年3月にもイタリア統一のためロンバルディア進攻を開始すると宣言した。パーマストン卿は特使を派遣して仲裁しようとしたが、オーストリアが国際会議開催を認めなかったため、オーストリアとサルデーニャは開戦に至った。サルデーニャの進攻はヨーゼフ・フォン・ラデツキ元帥率いるオーストリア軍の反撃で停滞。1849年3月のノヴァーラの戦いでサルデーニャ軍はオーストリア軍に決定的な敗北を喫し、カルロ・アルベルトも退位に追いやられた。 パーマストン卿はオーストリアが北イタリアへの支配力を回復した今、イタリア・ナショナリズムのために軍事介入する意思はなく、この段階ではこれ以上サルデーニャに肩入れすることはなかった。
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