サルデーニャ王国の保護領時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/09 14:24 UTC 版)
「モナコの歴史」の記事における「サルデーニャ王国の保護領時代」の解説
フランスの支配が終わる1814年、公国は再建されたが、1815年のウィーン会議によりサルデーニャ王国の保護領となった。この状況は1860年、トリノ条約によってサルデーニャ王国がサヴォワを含むニース周辺地帯を割譲するまで続いた。この半世紀に及ぶ保護領支配があるため、イタリア語はモナコの公用語となっていた。このためモナコの方言はフランス語よりはイタリア語に近いが、フランス語の影響も受けている。 この保護領時代にはマントンとロクブリュヌ=カップ=マルタンが独立宣言をしたために緊張が続き、両地域はサルデーニャ王国による併合と、イタリア統一運動への参加を望んでいた。その後モナコは二つの都市の統治権をあきらめ(両都市は国土の95%を占めていた)、400万フランと引き換えにフランスに譲渡された。この譲渡、およびモナコの主権が1861年のフランスモナコ条約により認められた。
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