サウスジョージア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/12 14:30 UTC 版)
「ジェイムズ・ケアード号の航海」の記事における「サウスジョージア」の解説
隊員が回復すると、シャクルトンは、島の北海岸にある捕鯨基地にボートで回ることは不可能だと判断した。ビンセントとマクニッシュはそれ以上移動することが難しかった。シャクルトンはボートをキングホーコン湾のより安全な位置に移動させ、そこから自分と、ワースリー、クリーンが徒歩で島を横切り、人の住む基地であるストロムネスを目指すことにした。 5月15日、ジェイムズ・ケアード号は砂利浜に沿って約6海里 (11 km) の湾奥近くまで移動した。このときはジャーキンの下に持ってきていたトマス・マーサー・クロノメーターでナビゲートした。ここでボートを浜に上げ、待避所とするために上下逆さまに置かれた。この場所は「ペゴティ・キャンプ」と名付けられたが、これはチャールズ・ディケンズの『デイヴィッド・コパフィールド』で乳母のペゴティのボートの家から採られた。5月18日早朝、内陸横断を目指す3人の隊が、サウスジョージアでは確認されている中で初の島の横断に出発した。彼らは地図も無かったので、山の尾根や氷河を横切って行く必要があった。36時間連続で旅を続け、ストロムネスに到達した。シャクルトンの隊員は、ワースリーの表現では「かかしの恐ろしい3人組」になっていた。寒さ、風、凍傷、蓄積された脂肪の煤で真っ黒だった。5月19日、その夜遅く、原動機付の船がキングホーコン湾に派遣され、マッカーシー、マクニッシュ、ビンセントを拾い、ジェイムズ・ケアード号を曳いてきた。ワースリーは、ストロムネスに居たノルウェー人水夫が全て「ジェイムズ・ケアード号を桟橋の上に上げることを助ける栄誉を主張した」と記し、その身振りが「全く感動的だった」と記している。 南極の冬が始まり、氷の状態が悪かったので、シャクルトンがエレファント島に残された隊員のために救援船を送るには3か月以上待たねばならなかったが、最終的にルイス・パルドを船長とするチリ海軍の蒸気駆動タグボート「イェルチョ号」を使い、隊員全員を無事救出し、1916年9月3日にチリのプンタ・アレーナスに到着した。
※この「サウスジョージア」の解説は、「ジェイムズ・ケアード号の航海」の解説の一部です。
「サウスジョージア」を含む「ジェイムズ・ケアード号の航海」の記事については、「ジェイムズ・ケアード号の航海」の概要を参照ください。
- サウス・ジョージアのページへのリンク