コシュートの「ドナウ連邦」構想
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オーストリア帝国は、ドイツ人・ハンガリー人・チェコ人・クロアチア人・ポーランド人・イタリア人など、非常に多くの民族を抱えた多民族国家であった。ハンガリーの下級貴族コシュート・ラヨシュは、ハプスブルク家の支配から完全に独立したうえで、オーストリアを除外してハンガリー主体の「ドナウ連邦」を樹立しようとした。 1848年、自由主義的な中小貴族の代表としてコシュートはハンガリー革命の指導者のひとりとなるが、オーストリアとロシア帝国の援軍によって革命運動は鎮圧され、亡命を余儀なくされた。1862年、コシュートは亡命先のミラノにおいて「ドナウ連邦」(ハンガリー語: Dunai Szövetség)構想を発表し、オーストリアからの独立とハンガリー国家再建案を明らかにした。この案においてコシュートは、ハンガリーがオーストリア以外の近隣諸民族と結んでドナウ川流域を連邦化することによって、一気にヨーロッパ諸大国と肩を並べる勢力に成長することを目指した。連邦化しなかった場合、大国に挟まれているハンガリーはどちらかの陣営に与することでしか生き残ることができないとコシュートは考えたのである。 結局コシュートの構想は退けられてオーストリア=ハンガリー帝国が成立することになるが、アウスグライヒまでのハンガリーでは、完全独立(ドナウ連邦)派と帝国内妥協派の二派が存在していた。自由主義的な中貴族を基盤とするグループは「ドナウ連邦」構想を支持し続けたが、自由主義的富裕貴族および中貴族右派を含む広範な層は、平和的にオーストリア帝国からの譲歩を勝ち取ったほうが賢明だと考えるようになった。ハンガリーの資本主義化した大地主が経済的にオーストリア資本を必要としていたうえ、ロシア帝国によるポーランドの1月蜂起の弾圧が汎スラヴ主義の脅威をかき立てたのである。また、ハンガリー王冠領の領土的一体性を損なう危険があるとして、ハンガリー大中貴族がコシュートらの連邦化計画を拒絶したことも、ハンガリー主体の「ドナウ連邦」構想に決定的打撃を与えた。
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