コシュートの「ドナウ連邦」構想とは? わかりやすく解説

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コシュートの「ドナウ連邦」構想

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 08:57 UTC 版)

ドナウ連邦構想」の記事における「コシュートの「ドナウ連邦」構想」の解説

オーストリア帝国は、ドイツ人ハンガリー人チェコ人クロアチア人ポーランド人イタリア人など、非常に多く民族抱えた多民族国家であったハンガリー下級貴族コシュート・ラヨシュは、ハプスブルク家の支配から完全に独立したうえで、オーストリア除外してハンガリー主体の「ドナウ連邦」を樹立しようとした。 1848年自由主義的な中小貴族代表としてコシュートハンガリー革命指導者のひとりとなるが、オーストリアロシア帝国援軍によって革命運動鎮圧され亡命余儀なくされた。1862年コシュート亡命先ミラノにおいて「ドナウ連邦」(ハンガリー語: Dunai Szövetség)構想発表しオーストリアからの独立ハンガリー国再建案を明らかにした。この案においてコシュートは、ハンガリーオーストリア以外の近隣諸民族結んでドナウ川流域連邦化することによって、一気ヨーロッパ大国肩を並べ勢力成長することを目指した。連邦化しなかった場合大国挟まれているハンガリーどちらか陣営与することでしか生き残ることができないコシュート考えたのである結局コシュート構想退けられオーストリア=ハンガリー帝国成立することになるが、アウスグライヒまでのハンガリーでは、完全独立ドナウ連邦)派と帝国妥協派の二派が存在していた。自由主義的な貴族基盤とするグループは「ドナウ連邦構想支持し続けたが、自由主義的富裕貴族および中貴族右派を含む広範な層は、平和的にオーストリア帝国からの譲歩勝ち取ったほうが賢明だ考えようになったハンガリー資本主義化した大地主経済的にオーストリア資本を必要としていたうえ、ロシア帝国によるポーランド1月蜂起弾圧汎スラヴ主義脅威をかき立てたのであるまた、ハンガリー王冠領領土的一体性損なう危険があるとして、ハンガリー大中貴族コシュートらの連邦化計画拒絶したことも、ハンガリー主体の「ドナウ連邦構想決定的打撃与えた

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