ゲームフリーク創刊
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1983年の東京工業高等専門学校3年生の時に、それまでの「ゲーム研究の成果」の集大成ともいえるゲーム攻略誌モノクロコピー誌(ミニコミ誌)『ゲームフリーク』を一人で執筆した。当時はゲーム雑誌も攻略本も今ほど整っておらず、同人誌専門店に販売を委託した「創刊号」は、彼と同じような“ゲームフリーク”(ゲームおたく)達の間で飛ぶように売れた。当時漫画家を目指していた杉森建も最初の読者の一人であり、すぐに田尻に手紙を送り、今に至る二人の友情が生まれ、2号以降のイラスト担当となった。その後も仲間は次第に増えていき、それに伴って『ゲームフリーク』の内容は充実していった。また、うる星あんず(大堀康祐)と中金直彦によるミニコミ界のベストセラー『ゼビウス 1000万点への解法』の再版依頼を受け『ゲームフリーク』別冊として発行し、当時のミニコミ誌としては記録的な部数を達成している。 ゲーム雑誌を作る傍ら、様々なゲームのアイディアを考案し、セガへ企画書を持ち込み、実際にゲーム制作を検討してくれる人物もいたが、持ち込んだ企画がゲームとして発売されることはなかった。そのことで田尻は「自分の手でゲームを作らなければ」と決心した。
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