グンポナムギャルの乱とガンデンポタン政府
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「チベットの歴史」の記事における「グンポナムギャルの乱とガンデンポタン政府」の解説
カム地方ニャロン(中国名新龍県)の領主グンポナムギャルは、19世紀半ば、十八諸侯とよばれるカム地方の領主の大部分を制圧した。これらの諸侯は1725年以来、成都の四川総督を介して兵部から冊封を受けており、清は反乱を鎮圧し、諸侯を救援せねばならない立場にあったが、清国はこの時期太平天国との戦いで、カム地方の戦乱に介入する余力はなかった。 清にかわってこの動乱を収束させたのがガンデンポタンチベット政府である。ガンデンポタンは数年かけてグンポナムギャルを打倒し、カムの十八諸侯を旧領に復帰させた。清の朝廷は、ガンデンポタンに戦費を支払う余裕もなかったため、その代償として、ガンデンポタンがニャロン(グンポナムギャルの本拠)を接収することを認めた。ガンデンポタンはニャロンにニャロン総督(ニャロン・チキャプ)を派遣し、直轄地として支配した。これによりガンデンポタンの勢力圏は、ディチュ河を越えて東方に拡大し、従来名目的には四川省に帰属していたカム地方東部の諸侯にもつよい影響力を発揮するようになった。 清は、中国における諸反乱をほぼ収束させると、清末新制に着手した。「清末新制」は、清国における国家体制の近代化であるが、チベット、モンゴルなどに対しては、従来中国とは別個の法制・行政制度のもと、盟・旗の長や土司職にある諸侯たち、ガンデンポタンなど、その民族自身による統治に委ねてきた体制を根本的に覆し、省・州・県を設けて中国に組み込むことを目指す、というものであった(東トルキスタンでは、すでに1878年に省制が施行され、行政機構の中国化が達成されていた)。
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