グラントの運河
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/04 10:12 UTC 版)
「ビックスバーグ方面作戦」の記事における「グラントの運河」の解説
デ・ソト半島を横切るウィリアムズ運河は、1862年7月にファラガット提督とウィリアムズ准将が中断したものだったが、ビックスバーグの砲台を迂回して川を下る経路を提供する可能性があった。1月遅く、シャーマン隊は、海軍からリンカーン大統領がこの考えを好んでいると忠告されたグラントの要請で掘削を開始した。シャーマンはこの運河を侮蔑的に「バトラーの溝」と呼んだ(以前ベンジャミン・バトラー少将がウィリアムズを上流に送ってこの仕事をさせていた)が、やっと幅6フィート (1.8 m)、深さ6フィートのものだった。グラントはリンカーンからうち続く運河の状態に関する問い合わせに疑いもなく影響されて、シャーマンに幅60フィート (18 m)、深さ7フィート (2.1 m)に拡げるよう命令を出した。これがグラントの運河と呼ばれるようになった。しかし、この運河はミシシッピ川の水門学(すいもんがく)に基づいて適切に設計されたわけではなく、水嵩が上がると運河川上のダムを決壊させ地域は水浸しになった。この運河は後背地の水と堆積物で埋まり始めた。この計画を救うために絶望的な努力が払われ、2隻の大きな蒸気駆動浚渫船ハーキュリーズとサンプソンが水路を開こうとしたが、浚渫船がビックスバーグの崖の上から南軍の砲火に曝され、撤退した。3月遅くまでに運河工事は放棄された(グラント運河約200ヤード (180 m)の名残はルイジアナ州のビックスバーグ国立軍事公園によって保護されている)。
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