クラーゲンフルト時代
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「マリア・アンナ・フォン・エスターライヒ (1738-1789)」の記事における「クラーゲンフルト時代」の解説
1780年にマリア・テレジアが死去するや、かねてよりマリア・アンナを深く憎悪していた弟帝ヨーゼフによって彼女は事実上宮廷より追放され、1781年4月にクラーゲンフルトの城館へ居を移した。この転居に際して、それまでに収集された鉱物はブダの大学へ、膨大な蔵書はウィーン大学やその他の科学研究施設へ売却することを余儀なくされた。 クラーゲンフルトでマリア・アンナは生まれて初めて民衆の歓待を受けた。この地で彼女は生涯の友人を得て、周囲に心を開くようになっていった。クラーゲンフルトの宮内庁長官として派遣されたエンツェンベルク伯爵と、女子修道院長シャヴェリエ・ガッサーが彼女の心の支えとなった。マリア・アンナは修道院の運営についてガッサーと忌憚なく意見を交換し、財政難で苦しんでいる修道院を経済的に支援した。マリア・アンナの尽力により、エリーザベト修道院付属教会は教区教会へと格上げされ、国庫からの援助を受けられるようになった。 マリア・アンナは私財を投じて、修道院付属の病院の施設の改善にも励んだ。ヨーゼフは彼女の財政支援の要請に冷淡な態度を取っていたが、1783年に現地を訪問し、病院の感じの良さと修道院の闊達な雰囲気に感銘を受け、病院へ支援を行うようになった。 また、ケルンテン州知事を通して、マリア・アンナは匿名で貧者や病人への支援を行った。熱心な社会福祉活動と学術活動の結果、彼女はケルンテン住民の敬愛を受けるようになっていった。
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