クペレクの叛乱とは? わかりやすく解説

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クペレクの叛乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 18:46 UTC 版)

バヤン (ジョチ家)」の記事における「クペレクの叛乱」の解説

バヤンオルダ・ウルス当主となった頃、東方大元ウルスではクビライ死去してオルジェイトゥ・カーン(成宗テムル)が即位しており、これを切っ掛けとして中央アジアのカイドゥ・ウルスと大元ウルスの関係は緊張状態陥ったこのような状勢の中、オルダ・ウルスでは第3当主テムル・ブカ息子クペレクが「以前私の父ウルス治めていた相続権は私にある」と述べてバヤン叛旗翻し、更にカイドゥ・ウルスに協力求めたカイドゥとその配下ドゥアチャガタイ家当主)から軍勢借りたクペレクバヤン打ち負かしバヤンジョチ・ウルス当主トクタの下に逃れざるを得なくなった。しかし、トクタもまたこの頃右翼ウルスノガイ内戦繰り広げており、バヤン軍事的に援助する余裕はなかった。その代わり、「[オルダ・]ウルスバヤン治めるべきである」という詔勅出しカイドゥドゥアに対して使者派遣してクペレクバヤン引き渡すよう要請した。しかし、クペレクオルダ・ウルス当主に即けて対大元ウルス/フレグ・ウルスとの戦争向けて味方増やすことを目指すカイドゥらはこの要請無視したやむなくバヤン独力で長期渡ってクペレクカイドゥ軍と戦争繰り広げ、『集史』「ジョチ・ハン紀」によると「今に至るまでに、バヤンクペレクカイドゥバトゥ軍隊18戦った。彼は6回の戦闘に自ら出陣した」という。また、集史』「クビライ・カアン紀」には「トルキスタンの国を、初期にはアルグが、その後右翼諸王であるカバンチュベイバラク、そしてコニチの子バヤンが墓回したということは有名である」とも記されており、バヤンクペレク戦いオルダ・ウルス内のみならず中央アジアにも波及したようである。

※この「クペレクの叛乱」の解説は、「バヤン (ジョチ家)」の解説の一部です。
「クペレクの叛乱」を含む「バヤン (ジョチ家)」の記事については、「バヤン (ジョチ家)」の概要を参照ください。

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