青帳の歴史とは? わかりやすく解説

青帳の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 08:32 UTC 版)

ジョチ・ウルスの両翼体制」の記事における「青帳の歴史」の解説

詳細は「オルダ・ウルス」を参照 オルダ・ウルス=青帳の歴史は、その立地モンゴル高原本土中央アジア動向に強い影響受けたことが特徴として挙げられるオルダ・ウルス創始者たるオルダにしても外征における活躍少ないが帝位をめぐる内紛において積極的に活動していたことが記録されている。 1260年代オゴデイ家カイドゥ自立始めた時、これを最初に支援したのはオルダ・ウルス当主コニチであった。しかし、カイドゥコニチ予想はるかに越えて勢力拡大しコニチの跡を継いだバヤン時代にはカイドゥ支援受けたクペレク叛乱起こす至ったバヤン大元ウルスバトゥ・ウルスのトクタ・ハンの助け得てクペレクの叛乱鎮圧したものの、この戦乱通じて青帳は弱体化し白帳に隷属する状態に陥ったものとみられ、先述した『ムイーン史選』はこの頃に「白帳(実際には青帳)」が成立したとする。 14世紀半ばには、さらに弱体化したオルダ・ウルスではオルダ家が断絶し、これに代わってジョチ十三男のトカ・テムルの子孫がハン地位につくようになった1370年代トカ・テムル家出身のオロス・ハンはオルダ・ウルス再統一して勢力拡大し一時的にバトゥ・ウルス首都サライ占領する至ったティムール支援を受け、オロス・ハンを打倒して即位したトクタミシュもまた西方の白帳に出兵し、1380年代にはついに左右両翼再統一実現した。 ところが、トクタミシュこれまで同盟関係にあったティムール敵対したことで没落しジョチ・ウルス再統合は顧挫した。トクタミシュ没落後、オロス・ハンの孫のバラクが青帳を取りまとめたが、年代には北方シバン家のアブル=ハイル・ハン南下し青帳を征服した。しかし、アブル=ハイル死後その勢力瞬く間に互解しその後継者たちはさらに南下してマーワラーアンナフルを占頭し、ウズベク・ハン国シャイバーニー朝)を建国した。一方バラクの子孫たちアブル=ハイル死後自立し、この勢力カザフ・ハン国呼ばれた最終的にオルダ・ウルス=青帳はウズベク・ハン国カザフ・ハン国分割される形で解体し、これらの勢力現代のウズペキスタン、カザフスタン原型となった

※この「青帳の歴史」の解説は、「ジョチ・ウルスの両翼体制」の解説の一部です。
「青帳の歴史」を含む「ジョチ・ウルスの両翼体制」の記事については、「ジョチ・ウルスの両翼体制」の概要を参照ください。

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