ガーデラ事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/29 01:10 UTC 版)
「カート・フラッド事件」の記事における「ガーデラ事件」の解説
1945年にまずまずの成績を残したニューヨーク・ジャイアンツの外野手ダニー・ガーデラ(en:Danny Gardella)は、第二次世界大戦が終わり兵役から戻ってくる選手達にチームの興味が移っていると察し、1946年は条件も良かったメキシカンリーグでプレーしようと考えた。当時のハッピー・チャンドラーコミッショナーはガーデラらメキシカンリーグと契約した選手達に対して、保留条項に違反したとし、5年間の出場停止処分を課した。 メキシコから戻ってきたがどのチームとも契約できなかったガーデラは、実際には今までメジャー契約を結んだことは無かったこともあって、1947年10月に「保留事項を盛り込んだメジャー契約を交わしたことのない自分がプレーを拒否される言われはなく、また保留事項は独占的で移籍を制限するものだ」として、ニューヨーク地裁に訴えを起こした。1年後、判事は1922年の判例を元にやはり野球はシャーマン法の適用範囲外であるとの結論を出したが、1949年2月に控訴審は控訴を認め、裁判は継続されることとなった。敗訴してしまった場合に球団に与えるダメージを恐れたチャンドラーコミッショナーは、出場停止処分の解除を申し出て、事態の収束を図った。弁護士も長くお金のかかる裁判を続けるよりは和解を受け入れた方が得策であると説得し、ガーデラは和解金を受け取り野球界に復帰した。
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