カルーゾの裏切り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/28 05:51 UTC 版)
「カルミネ・クロッコ」の記事における「カルーゾの裏切り」の解説
このときからクロッコは武器や金銭の供与・援助を失い、富裕者層を対象に身代金目当ての誘拐や強盗を繰り返す。進出規模は遥かフォッジャ(Foggia)、バーリ(Bari)、レッチェ([Lecce)、ジノーザ(Ginosa)、カステッラネータ(Castellaneta)にまで及んだが、これはプーリア出身の盗賊セルジェンテ・ロマーノ(Sergente Romano)という協力者を得たからであった。1862年2月二人はアンドリア(Andria)とコラート(Corato)周辺に集結。国家警備隊の兵士を殺害し農場を略奪した。 1862年8月リオネーロの民事安全局(Pubblica Sicurezza)代表のヴェスパジアーノ・デ・ルーカ(Vespasiano De Luca)はクロッコとカルーゾに司法取引を持ちかけた。デ・ルーカは二人を民事裁判に掛けることができれば死刑は回避できると約束し、クロッコには新政府が決定した島への流刑を提示した。しかし交渉は失敗に終わった。1863年3月クロッコの一味、ニンコナンコ、カルーゾ、カポラル・テオドーロ、サッケティエッロ、マーラカルネらはサルッツォのビアンキ隊長率いる騎兵隊を攻撃した。15人の騎兵が撲殺された。 カルーゾはこれまでクロッコの最も優秀な歩哨だったが、この時期にクロッコとの関係が悪化する。理由には不可解な点が多いが、それはカルーゾがクロッコの意思に反して捕虜の新政府軍兵士を皆殺しにし、それに怒ったクロッコが今度はアテッラ(Atella)の盗賊団を虐殺したときに始まったとも言われる。またクロッコがカルーゾの愛人フィロメーナ・ペンナッキオ(Filomena Pennachio)を奪ったからだという説もある。 1863年9月14日カルーゾはリオネーロのフォンターナ将軍に投降する。そしてクロッコを筆頭に昔の同胞たちへの報復を用意していた。将軍エミリオ・パッラヴィチーニ(Emilio Pallavicini:教皇庁に迫ろうとしたガリバルディをアスプロモンテ (Aspromonte) で阻止したことでも有名)を頼って、クロッコの計画やアジトを暴露した。この情報漏洩により多くの者たちが死に、クロッコの部隊は徐々に弱体化した。
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