カプコン時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 01:22 UTC 版)
その後同年に、有馬や藤原得郎らと共に創業間もないカプコンに入社。辻本憲三社長と直談判の結果、初任給約35万円からのスタートであった(直前のコナミ所属時の初任給は額面上13万円+皆勤手当5千円で翌年の昇給は5510円)。なお、一緒に辞めた有馬はともかく、藤原らについては結果としてコナミから引き抜く格好になったため、コナミからは出禁を言い渡された。 当時、東京都新宿区歌舞伎町の松宝ビルに入居していた東京開発室(現在のカプコン東京支社とは異なる)の責任者として、人材採用から開発までを一手に担う。この時期に採用した人材に、後に『ストリートファイター』等のキャラクターデザインで有名になる安田朗がいる。 その後、東京開発室の閉鎖とともにカプコン大阪本社に引き戻され、第三開発室の責任者となる。『ソンソン』や『エグゼドエグゼス』『ガンスモーク』『サイドアーム』『麻雀学園(マージャンアカデミー)卒業編』などのディレクションを担当するが、『ロストワールド』を最後に開発の現場からは退き、その後はプロデューサーや広報担当として『ストII』シリーズ等の多数のカプコンのヒットタイトルの輩出に貢献しその手腕を発揮した。 1996年、同社取締役開発本部長に就任。1997年にはゲームシナリオの開発会社であるフラグシップを設立、代表取締役社長を兼任する。2001年にはカプコンの専務取締役に就任。
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