カダフィ政権崩壊後の国民対立
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「2014年リビア内戦」の記事における「カダフィ政権崩壊後の国民対立」の解説
2011年リビア内戦ではカダフィ政権下で優遇された部族などは、内戦中も一貫してカダフィ陣営を支持してきた。政権崩壊によって「賊軍」となった彼らは、新政府からの迫害以外にも、形勢が逆転した6月頃から周囲の評議会派の部族(主にカダフィ政権下では冷遇されていた)による報復が発生した。カダフィ政権下での部族間格差が報復の残酷さを助長した。こうした報復の応酬によって生じた対立を仲裁・解消するため、宗教指導者・教育者・知識人が主体となって「国民和解のための調停委員会」が設置された。新政府による冷遇の典型的な例はカダフィ大佐の出身地スルトで、リビア内戦で最後の激戦地となった事に加え、カッザーフィーを最後まで支持し、匿っていた事による新政府からの冷遇や、進まない戦後復興への不満が後述のイスラム過激派の温床となる一因となる。部族間対立の最も典型的な例が、ミスラタ(カダフィ政権冷遇派)とタオルガ(カダフィ政権優遇派)の対立である。ベンガジ蜂起後、西部で真っ先に反旗を翻したミスラタに対して、カダフィ大佐の弾圧支持と多額の資金援助を受けたタオルガをはじめとする周辺都市が大規模な攻撃を行った。しかしその後に形勢が逆転すると、ミスラタがタオルガを攻撃した。双方合計7000人近くが死亡した戦闘がミスラタの勝利に終わると、ミスラタはタオルガ住民を町から追放、町を閉鎖した。タオルガ住民は全国各地に散らばって難民化、NGOの援助によってかろうじて命をつなぐ窮状に追い込まれた。調停委員会はこの二者の和解を最優先課題と位置づけ、タオルガ指導部が仲裁を依頼した第三者の有力部族とともに調停に当たっている。
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