オニクス時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 06:44 UTC 版)
1989年第13戦ポルトガルGPで、オニクスからF1に初めてエントリーしたが、このグランプリでは予備予選落ちを喫した。F1デビュー(初の決勝進出)は続くスペインGPで、このときはギアボックストラブルによりレース前半にリタイヤした。その後第15戦日本GPでは予備予選落ち、豪雨となった最終戦オーストラリアGPでは一時5位と上位を走行したが、電気系トラブルが発生しリタイヤとなり、デビューイヤーの完走はならなかった。 開幕から参戦した翌1990年は、第2戦ブラジルGP終了後にオニクスがスイスの投資家グループに売却され、主要スタッフとベテランのステファン・ヨハンソンらがチームを追われ、新たにスイスドライバーのグレガー・フォイテク(父のカール・フォイテクが新出資者であった)が加入。レートは第3戦サンマリノGPで初完走(12位)したが、新オーナーのペーター・モンテベルディと出資者となったカール・フォイテクの意向からグレガー・フォイテクに肩入れする体制となり、トランスミッションをまともに組めるメカニックが存在しないというレーシングチームの体を成していないチーム状態だった。後は5度の予選落ちと4度のリタイアという状況の中、第10戦ハンガリーGP後の8月15日に行われたモンツア合同テストでは、エンジニアとメカの人数不足からまともに走行する事が出来ず、危険を感じるようになったレートとロズベルグは、このテスト後モンテベルディ・オニクスに見切りをつけチームから離脱した。フォイテク家も同様の理由でチームから抜け出しており、資金と両ドライバーを失ったチームは最終戦までグランプリを戦うことなく消滅した。なお、レートは同年のル・マン24時間耐久レースにリチャード・ロイドチームのポルシェ962を駆り初出場している。
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