エーディトとの結婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/09 21:40 UTC 版)
「エゴン・シーレ」の記事における「エーディトとの結婚」の解説
1914年、ウィーンに戻ったシーレは、通りを挟んだ向かい側に住んでいた中産階級職人の娘、ハルムス家のエーディトとアデーレ姉妹と知り合っていた。シーレはどちらかと結婚することを考え、エーディトを選択した。シーレによれば社会的に許される人間を選んだとしているが、実際のところはエーディトとヴァリの両方を繋ぎ留めたいと考え、年に1回それぞれと2人でバカンスに行くなどといった妥協案を2人に提示したが、そんなことが受け入れられるわけもなく、ヴァリは2人の前から去った。そして、ショックを受けたヴァリは二度とシーレの前に現れなかった。シーレはこの時の経験も絵画として描いている。その後ヴァリは従軍看護婦としての訓練を受け、クロアチアに派遣されるも、1917年に派遣先で23歳の若さで病死した。 1915年6月17日、ウィーン市の中心部ドロテーア通りにあるオーストリア福音主義教会アウクスブルク信仰告白派のルター派シュタット教会でエーディト・ハルムスとの結婚式が執り行われた。花嫁エーディトの父ヨハン・ハルムスは北ドイツ出身の機械工のマイスターでルター派であった。カトリックが圧倒的であったウイーンにおいて、ハルムス家の属する少数派のルター派教会で結婚している。しかしながら、カトリック教徒の母マリアはこの結婚式には出席しなかった。シーレと母マリアの間に緊張が強まった結果、シーレはハルムス家とその姉妹に密接につながっていく。結婚はハルムス家の妹エーディトとしたが、義姉のアデーレとも密接な関係を持った。下着姿の義姉アデーレをモデルにした作品『紫色の靴下をはいて座っている女』(1917年)があるが、この時期にシーレとの性的関係があったことを義姉アデーレが告白している。
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