エリー運河以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/26 18:32 UTC 版)
17世紀のニューヨーク港に住んでいた先住民族であるレナペ族は言語学的にアルゴンキン語族に属し、この水路を漁労や移動に用いていた。1524年、ジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノが現在ザ・ナローズと呼ばれているブルックリンとスタテンアイランドの間の海峡に停泊した。彼はここでレナペ族からカヌー・パーティを受けた。乗組員たちはスタテンアイランドの"the watering place"と呼ばれる泉で飲料水を補給したと言われている。この泉があったおおよその位置、現在のベイ・ストリートとビクトリー・ブールバードの角には記念碑が建っている。しかし、ヴェラッツァーノが残した文献の記述は曖昧な点がある。歴史家たちによって、彼が停泊した場所はほぼ、現在のヴェラザノ・ナローズ・ブリッジのブルックリン側あたりであろうと見当が付けられている。彼はその北に大きな湖を見たと記しているが、これは明らかにアッパー・ニューヨーク湾のことであろう。彼は、これより北には進んでおらず、ハドソン川を発見していないであろうと考えられている。この港を最初に訪れたと記録があるのは1609年のヘンリー・ハドソンである。 1624年、ガバナーズアイランドでヨーロッパ人による最初の恒久的な移住・開拓が始められ、8年後にはブルックリンでも入植が始まった。間もなくこれらの場所の間を渡し舟が結んだ。オランダの植民地ニューネーデルラントの総督ピーター・ストイフェサントはイーストリバー下流のマンハッタンの岸に風や氷から守るために最初の桟橋を築くことを命じ、1648年に完成し、スクライアーズフック・ドックと名付けた(現在のパール通りとブロード通りが交わる近く)。このことで、ニューヨークがイギリス領13植民地の、そして後に新たに独立したアメリカ合衆国の主要港になる道を開いた。1686年、イギリス植民地政府はこの岸辺一帯に市制を布いた。
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