ウズン・ハサンとの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 21:13 UTC 版)
「メフメト2世」の記事における「ウズン・ハサンとの戦い」の解説
1464年にメフメトはカラマン侯国で起きた後継者争いに介入し、領土の割譲を条件にピール・アフメド・ベイを支援した。ピール・アフメドは即位後に領土の返還を要求してオスマンと対立し、1466年にオスマン軍はカラマンの領土を攻撃し、コンヤ、カラマンを征服する。ピール・アフメドは白羊朝のウズン・ハサンに庇護を求め、トレビゾンドとカラマンの併合は、オスマン帝国と白羊朝との関係を悪化させる。 ウズン・ハサンは東西交易の拠点の確保を望むヴェネツィアと同盟し、オスマンの挟撃を試みた。ヴェネツィアは白羊朝との同盟にあたり、大砲と火薬の供給を約束した。 1471年にメフメトが残存するカラマン朝の領土を攻撃すると、ピール・アフメドはウズン・ハサンに助けを求めた。オスマンに領地を奪われた他のベイリクの君主もウズン・ハサンの元に集まり、アナトリアのオスマン領を攻撃した。メフメトは宰相ルム・メフメトパシャを罷免して左遷していたマフムト・パシャを宰相に復職させ、アナトリアに配置していた息子と総督にウズン・ハサンの攻撃を命じた。オスマン軍はベイシェヒル(英語版)近郊で白羊朝軍に勝利するが、メフメトは次の戦闘に備えて徴兵と物資の補充を行った。 1472年、ウズン・ハサンはオスマンとの和約を破棄し、カラマン侯国の旧領の帰属を巡る問題に介入する。ヴェネツィアはウズン・ハサンの元に大砲を届けようとしたが、オスマン艦隊はヴェネツィア艦船を捕らえ、大砲の到着を阻止する。1473年にオスマン軍とウズン・ハサンが率いる白羊朝軍はアナトリア東部のオトゥルクベリで交戦する(オトゥルクベリの戦い(英語版))。オスマン軍はウズン・ハサンに勝利し、カラマン侯国の旧領はオスマン帝国に組み入れられた。戦後、オスマン軍はカラマンに帰国したピール・アフメドを放逐し、ピール・アフメドは再びウズン・ハサンの元に逃亡した。 1474年、息子ムスタファが亡くなる。ムスタファは、大宰相マフムト・パシャと彼の妻を巡って争い、マフムト・パシャによって暗殺されたと考えられている。
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