ウエストバージニア州の分離
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/19 14:24 UTC 版)
「バージニア州の歴史」の記事における「ウエストバージニア州の分離」の解説
バージニア州はアメリカ連合国に最後に加入した州となったが、これは州の北西部で奴隷制がなく、合衆国からの脱退に対する支持がなかったことが大きな理由であった。連合国に加入した後は、間もなくこの地域で混乱が起こった。48の郡からなるこの地域はバージニア州に対する反乱が成功し、最初はカノワ州、後にウエストバージニア州となった。この行動は1870年に合衆国最高裁判所で支持された。 バークリー郡とジェファーソン郡(バージニア州の最北端)は南北戦争中も連合国とバージニア州に留まり、1863年1月1日にウエストバージニア州が合衆国への加盟を認められたときもその一部にはならなかった。戦後のレコンストラクション中の1866年、これら2つの郡は住民投票でウエストバージニア州の一部となることを決め、ウエストバージニア州は50の郡ということになった。 ウエストバージニア州の成立でバージニア州はペンシルベニア州と境を接しなくなった。しかし、バージニア州とウエストバージニア州の境界がまだ変動要素があったものの、バージニア州の2つの郡は1866年にウエストバージニア州に入る道を選んだ。20世紀になってもバージニア州の北部山地の境界、バージニア州ロードーン郡とウエストバージニア州ジェファーソン郡の間には正確な境界線について論争があった。1991年両州議会は境界地域15マイル (24 km)を調査する境界委員会のための予算を付けた。
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