ウィリアム・ゴーベル知事の暗殺
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「ケンタッキー州の歴史」の記事における「ウィリアム・ゴーベル知事の暗殺」の解説
1899年に共和党公認でウィリアム・S・テイラーがケンタッキー州知事に選ばれたことは予想を覆す出来事だった。この選挙は現在までのケンタッキー州の歴史の中でも最も接戦となった知事選である。民主党候補者ウィリアム・ゴーベルの支持者達が選挙結果について異論を唱えた。 ケンタッキー州上院は民主党議員ばかりの特別査問委員会を設けた。この委員会がゴーベルに有利な結論を出すことが明らかになると、テイラーの支持者達が武装蜂起した。1900年1月19日、1,500名以上の武装市民がケンタッキー州議会議事堂を占領した。アメリカ合衆国は2週間以上、ケンタッキー州が内戦状態に移っていく様子を見守った。現職知事となっていたテイラーは戒厳令を宣言し、公式にケンタッキー州兵を始動させた。 1900年1月30日、2人のボディガードを伴っていたゲーベルが議事堂に向かう途中で狙撃手に撃たれた。ゴーベルは致命傷を負っていたが、翌日ケンタッキー州知事として就任宣誓した。ゴーベルはその傷が故で2月3日に死んだ。 ゴーベル知事の死後4ヶ月近くの間、ケンタッキー州には州の執政責任者として機能する2人の役職者がいた。知事であると主張するテイラーと、ゴーベル知事の副知事候補者でゴーベルが死んだときに就任宣誓を行ったJ・C・W・ベッカムだった。 ベッカム知事はケンタッキー州の執政責任者を決定するために連邦政府の手助けを要請した。アメリカ合衆国最高裁判所は1900年5月26日に最終判決に至り、委員会の裁定を支持してゴーベルが事実上ケンタッキー州知事であるとした。副知事がケンタッキー州の継承順位にあるので、ベッカムがケンタッキー州知事となった。 裁判所の判決が出て直ぐに、テイラーはインディアナ州に逃亡した。テイラーは後にゴーベル知事暗殺の共謀者の一人として告発された。テイラーを送還する試みが失敗し、テイラーは死ぬまでインディアナ州に留まった。
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