ウィリアム・コングレーヴ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/21 06:51 UTC 版)
「コングリーヴ・ロケット」の記事における「ウィリアム・コングレーヴ」の解説
マンローの1789年の書籍を含むインドのロケットの戦訓から、最終的に王立工廠は、軍用ロケットの研究開発プログラムを1801年に始めるに至った。幾種類かのロケットのケース部分がマイソール王国から収集され、イギリスへ分析用に送付された。開発は主な作業をウィリアム・コングレーヴ大佐(後にサーの称号を得る)が努めた。彼はロンドンのウーリッジに所在する王立工廠の監査官の息子であり、工廠の研究所で活発な研究開発プログラムに着手した。開発作業の完了後、ロケットはさらに北方、エセックス州ウォルサム・アビーの近郊で大量生産に入った。彼が述べるところでは、"the British at Seringapatam had suffered more from the rockets than from the shells or any other weapon used by the enemy".「Seringapatamでのイギリス軍は、敵に用いられた砲弾や他の兵器よりも、ロケットからより多く損害を受けていた。」"In at least one instance"「少なくとも一例では」と目撃者はコングリーヴに語っている。"a single rocket had killed three men and badly wounded others"「1発のロケットが3名を殺害し、他の人々に重傷を負わせた」 コングリーヴは推薬の新規な混合法を調製し、また頂部が円錐形の強靱な鋼管を用いてロケットモーターを開発した。重さは約32ポンド、15kgであった。またコングリーヴはロケット工学に関する書籍を3冊出版した。
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