イリ陥落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 19:33 UTC 版)
詳細は「回民蜂起」を参照 陝西・甘粛で主に回民が起こした反乱に乗じて、天山北路のイリ盆地ではカザフ人・キルギス人・ウズベク人が反乱を起こし、1864年11月10日に商業の中心地であるグルジャと軍事・政治の中心地の恵遠城の両方で蜂起した。 仏教徒のカルムイク人とシベ人は清朝側についた。グルジャは回民の軍勢が陥落させた。 恵遠城の清軍は孤立し、北京と連絡を取るにはロシアを経由せざるを得なかった。恵遠城の清軍は12月12日の攻撃を撃退することに成功したが、反乱はジュンガリアの北部に広がった。 これらの蜂起は、イリ政府の能力を超えたものであった。 1865年正月、タルバガタイ地区チョチェクのモスクで清の役人とカルムイクの貴族が和平交渉を行おうとすると、回民の軍勢が襲撃し、2日間の戦闘の後、ムスリムがチョチェクの支配権を確立し、清軍の要塞は包囲された。 カルムイク人の支援で清軍は秋までにタルバガタイ地区を奪回し、鎮圧に成功する。 清朝は反乱の鎮圧のためにロシア帝国に援助を求めたが、ロシア政府内部では、露清関係とムスリム国家が成立した場合との双方が議論され、結局ロシアは清軍のシベリア通過と恵遠城軍への穀物の売却を認めたのみであった。 また1865年2月、セミレチエ州駐屯軍のゲラシム・コラパコフスキーは東トルキスタンを植民地とすべきと主張している。 1865年4月、恵寧城がムスリム軍の攻撃を受けて、満州人・シベ人・エヴェンキからなる8千人の守備隊は全滅し、恵寧城は1866年3月3日に陥落し、明緒将軍は自殺し、イリ地方は清朝の手から離れた。
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