イラン への出向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 08:48 UTC 版)
チンギス・カンが中央アジア遠征から引き上げた後、旧ホラズム領の中でモンゴル軍による被害が最も大きかったホラーサーン州は治安がきわめて悪化し、特にチンギス・カンの死後にホラズムの残党が復活する兆しをみせていた。このような事態に対処するため、オゴデイとトゥルイらの協議によってチョルマグン率いるタンマチ(辺境鎮戍軍)の派遣が決定され、このタンマチ軍の後方支援を行うよう命じられたのがチン・テムルであった。 チン・テムルは命を受けると1230年頃にホラズム州からホラーサーン州に入り、これに多数のホラズム人行政官が同行した。また、チン・テムルの下にはチンギス・カンの諸子がそれぞれ自らの代理人としてクル・ボラト、ノサル、ヒジル・ブカ、イェケらを派遣しており、彼らの帯同するビチクチ(書記官)がイラン統治の実務を担った。 チン・テムルがホラーサーンに入った頃、 チョルマグンが設置したダルガチをジャラールッディーン・メングベルディーの配下の武将カラチャとヤガン・ソンコルが殺害するという事件が生じており、これを聞いたオゴデイはインド方面のタンマチ司令官ダイルにホラーサーンに出兵するよう命じていた。しかし、チン・テムルはこの命令が実行に移される前に自らクル・ボラドを派遣してカラチャらを討伐し、独力でホラーサーンの治安を回復させた。 ダイルはオゴデイの勅令をたてにホラーサーン州の統治は自らに任せられたことであり、チン・テムルは手を引くようにと通達し、チョルマグンもこれを支持したが、チン・テムルはこれを拒否した。このようなダイルら武官の行動に対抗するため、チン・テムルはクル・ボラトをオゴデイの下に派遣し、ホラーサーン州の実情と自らの立場を主張させることとした。この時、チン・テムルはホラーサーン、マーザンダラン一帯の有力者も同行させたため、クル・ボラトを迎えたオゴデイは大いに喜んで「チョルマグンは出征以来、多くの国々を打従えたが,、未だ一人の国王も我等のもとに送ってこない。チン・テムルはその領域も狭く、資源も少いのに、このような忠勤を励んだ。彼を称讃する。ホラーサーンとマーザンダラーンの長官職を彼の名前で確認する。チョルマグン及び他の長官たちは干渉の手を引くように」と述べたという。 オゴデイは全員に金のパイザと朱印勅書を与え、ここにおいてチン・テムルはオゴデイの勅令(ジャルリグ)の下、正式にイラン方面の行政をゆだねられることとなった。
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