イドレ死の行軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 19:15 UTC 版)
「ニューギニアの戦い」の記事における「イドレ死の行軍」の解説
フォーヘルコップ半島における日本軍の兵力は、東岸のマノクワリに第2軍司令部をはじめとする2万名、西端のソロンに第35師団司令部をはじめとする1万2,500名があった。 ソロンの陸海軍部隊は孤立しながらも、サクサク(サゴヤシ澱粉)の採取などで現地自活し多くが終戦まで持ちこたえた。一方マノクワリでは、第2軍司令官豊島房太郎中将が2万名の自活は不可能と判断、1万5,000名に対して、南方200キロのベラウ湾奥のイドレへ転進しそこで自活するよう命じた。1万5,000名の将兵は1944年7月1日に出発、食糧補給の全くない中で熱帯雨林の横断や 3,000メートル級のアルファク山(英語版)越えで1~2か月を費やしてイドレにたどり着いたとき、人数は6,000から7,000名にまで減っていた。さらにイドレにはそれだけの人数を養えるサゴヤシは存在しなかった。将兵は終戦までの1年間、飢えとマラリアの生活を送った。戦後イドレ地区からの生還者は3,000名に満たなかった。
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