イトーヨーカドー 〜 ダイエー時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 16:17 UTC 版)
「斎藤真由美」の記事における「イトーヨーカドー 〜 ダイエー時代」の解説
1988年2月に17歳でソウル五輪の第1次候補選手に選出される。その実力と容姿から「未来の全日本エース」、当時美少女として人気を博していた後藤久美子になぞらえ「バレーボール界のゴクミ」と称されることもあった。スポーツ専門の雑誌に留まらず一般の雑誌にも特集ページが設けられテレビ番組にも出演することもあったが、斎藤は一貫してバレーボール選手としてのスタンスで応じていた。しかし、全日本招集時に「ベンチに座っていればいいから」と言われたことを不満に思いソウル五輪は辞退した。 ソウル五輪には出場できなかったが、同年のNHK杯で全日本デビューを飾った。翌1989年のワールドカップではキューバ、中国などの強豪チームを相手にエースアタッカーとして活躍し敢闘賞を獲得した。またこの年度の日本リーグではチームの優勝に貢献し、最高殊勲選手に選ばれた。 その後、怪我に苦しみ、全日本に選出されるたびに、体を壊すようになる。1993年8月、兄が運転する乗用車に同乗中、居眠り運転の対向車と衝突する交通事故に遭い、事故以前の怪我とリハビリ期間を含めて4年近くバレーをすることができない状態が続いた。 1996年にイトーヨーカドーの主将としてチームに復帰した。その後、ダイエー(オレンジアタッカーズ)に移籍。1997-98年シーズンの第4回Vリーグではチームを優勝へと導き2回目の最高殊勲選手に選ばれた。
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