イギリス第8軍のガザララインからの撤退とは? わかりやすく解説

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イギリス第8軍のガザラ・ラインからの撤退

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 15:08 UTC 版)

ガザラの戦い」の記事における「イギリス第8軍のガザラ・ラインからの撤退」の解説

6月14日、オーキンレックはリッチーのガザラ・ラインからの撤退承認した。エル・アデムとそれに隣接した2箇所ボックス陣地守備隊固く守っていたため、南アフリカ第1歩師団海岸沿いのバルビア街道をほぼ無傷撤退できた。しかし、バルビア街道は2個師団通過するということができなかったため、第50(ノーサンブリア)歩兵師団所属の2個旅団別の道を探さなければならなかった。この2個旅団は、枢軸国軍装甲部隊のために、直接東へ向かって退却するわけにはいかなかった。その代わりに、南西方向のイタリア第10軍団ブレシア及びパヴィア師団ライン向かい突破図って攻撃行い、さらに南へ向かって砂漠地帯出て方向を東に変えイギリス軍支配する地域マッダレーナ)へ逃れた。 オーキンレックは、ロンドン強固な防衛点であるエジプト- リビア国周辺地区へのイギリス軍の撤退望んでいないとはっきり分かっていた。このため6月14日リッチー対しオーキンレックはアクロマ(Acroma : トブルクの西)から 南東へエル・アデムを通り、ビル・エル・グビまでの線を維持するよう命令した。しかし、6月15日夕方には650高地防衛拠点攻撃を受け、6月16日には187高地守備隊物資補給ができなくなり撤退せざるを得なくなったその日一日中エル・アデム及びシディ・レゼーグのボックス陣地守備隊は、ドイツアフリカ軍団の強い圧力を受け続けた6月17日ついに両陣地守備隊撤退し、これによりトブルク包囲を防ぐ機会失われてしまった。リッチーイギリス第8軍対し前線の約 100 mi (160 km) 東メルサ・マトルー (Mersa Matruh) の防衛拠点撤退するよう命令しトブルク残置部隊には敵の攻撃持ちこたえて1941年時のように枢軸国軍連絡妨害するよう命令した

※この「イギリス第8軍のガザラ・ラインからの撤退」の解説は、「ガザラの戦い」の解説の一部です。
「イギリス第8軍のガザラ・ラインからの撤退」を含む「ガザラの戦い」の記事については、「ガザラの戦い」の概要を参照ください。

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