アンドロニコス1世の改革とコムネノス王朝の終焉とは? わかりやすく解説

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アンドロニコス1世の改革とコムネノス王朝の終焉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 02:42 UTC 版)

コムネノス王朝」の記事における「アンドロニコス1世の改革とコムネノス王朝の終焉」の解説

アンドロニコスは強権的統治国内改革し大土地所貴族抑えて帝国支配再建しようとしたがうまくいかず、ついには恐怖政治行って反抗する高官次々処刑したために有能な人材失われた1185年西方から侵入したシチリア王国軍が帝国第2の都市テッサロニキ陥落させて首都に迫ると、パニック陥った首都市民アレクシオス1世の娘の孫であるイサキオス・アンゲロスを擁して反乱起こしアンドロニコス1世廃位され街頭で怒り狂った市民たちの手虐殺された。以後帝国はかつての栄華取り戻すことはなかった。ただし、アンゲロス家はもちろん、その後帝位世襲したラスカリス家・パライオロゴスはいずれコムネノス家との姻戚関係足がかり帝位獲得したのである。 なお、アンドロニコスの孫アレクシオスダヴィドアンドロニコス1世殺されたときに母に連れられてコンスタンティノポリスからグルジアタマル宮廷へ逃げ1204年第4回十字軍によるコンスタンティノポリス陥落の後に、小アジア北東部トレビゾンド現在のトルコ・トラブゾン)を都としてトレビゾンド帝国建国皇帝宣言したアレクシオス1世)。トレビゾンド帝国1461年オスマン帝国滅ぼされるまで、東ローマ帝国本体よりも長く存続した。

※この「アンドロニコス1世の改革とコムネノス王朝の終焉」の解説は、「コムネノス王朝」の解説の一部です。
「アンドロニコス1世の改革とコムネノス王朝の終焉」を含む「コムネノス王朝」の記事については、「コムネノス王朝」の概要を参照ください。

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