アンドロニコス1世の改革とコムネノス王朝の終焉
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「コムネノス王朝」の記事における「アンドロニコス1世の改革とコムネノス王朝の終焉」の解説
アンドロニコスは強権的な統治で国内を改革し、大土地所有貴族を抑えて帝国の支配を再建しようとしたがうまくいかず、ついには恐怖政治を行って反抗する高官を次々に処刑したために有能な人材が失われた。1185年、西方から侵入したシチリア王国軍が帝国第2の都市テッサロニキを陥落させて首都に迫ると、パニックに陥った首都市民はアレクシオス1世の娘の孫であるイサキオス・アンゲロスを擁して反乱を起こし、アンドロニコス1世は廃位され、街頭で怒り狂った市民たちの手で虐殺された。以後帝国はかつての栄華を取り戻すことはなかった。ただし、アンゲロス家はもちろん、その後帝位を世襲したラスカリス家・パライオロゴス家はいずれもコムネノス家との姻戚関係を足がかりに帝位を獲得したものである。 なお、アンドロニコスの孫アレクシオスとダヴィドはアンドロニコス1世が殺されたときに母に連れられてコンスタンティノポリスからグルジアのタマルの宮廷へ逃げ、1204年の第4回十字軍によるコンスタンティノポリス陥落の後に、小アジア北東部のトレビゾンド(現在のトルコ・トラブゾン)を都としてトレビゾンド帝国を建国、皇帝を宣言した(アレクシオス1世)。トレビゾンド帝国は1461年にオスマン帝国に滅ぼされるまで、東ローマ帝国本体よりも長く存続した。
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