アルミニウス主義偏重
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 16:51 UTC 版)
「ジョージ・ヴィリアーズ (初代バッキンガム公)」の記事における「アルミニウス主義偏重」の解説
またバッキンガム公はアルミニウス主義への接近もやめようとはしなかった。アルミニウス主義は1563年にイングランド国教会が採択したカルヴァン主義の予定説(救いは人間の行いに関係なく、神の一方的意思によって、しかも世界創造の時点で予定されていた者にだけ与えられるとする説)を批判して人間の意志を強調したプロテスタントの一宗派だが、聖職者の権限は直接神に由来するとし、また聖礼典など儀式の重要性を説いて教会を外面的に美化してその威厳を示すことに努めたため、強硬なプロテスタント・カルヴァン主義者であるピューリタンたちからは、教義と儀式重視によってカトリック回帰を狙っていると批判されていた。 1626年に私邸ヨーク・ハウス(英語版)でアルミニウス主義者とカルヴァン主義者の会談を設定したが、この席上、初代セイ=シール子爵(英語版)ウィリアム・ファインズとコークからドルトムントの宗教会議で宣言されたカルヴァン主義をイングランド国教会に受け入れるよう求められたのに対して、バッキンガム公は「否、否。そんなものは必要ない。我々はそんな会議とは無関係だ」と答えたという。さらにバッキンガム公はアルミニウス主義者と目されていた聖職者を積極的に国教会の要職に登用した。とりわけウィリアム・ロードを重用し、自らの宗教政策の顧問とするようになった。バッキンガム公のそうした態度はピューリタンから強い憎しみを招くことになった。
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