アララト反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/22 18:57 UTC 版)
1927年にシリアでホイブン(Xoybun)という組織が作られた。このホイブンがアララト反乱で大きな役割を果たす。ホイブンはインテリのみならず、領主(agha)やシャイフ、ベグなど幅広く支持を集め、国際的なネットワークも持っていた。またかつてクルド人が迫害したアルメニア人とも交渉を持ち、有る程度の協力を確約している。この当時デルスィムとアララト山付近はまだトルコの支配を受けておらず、先の反乱に加わっていたものたちが集まった。ホイブンは軍事的な知識をもった人材をアララトに送り込んでいる。トルコは反乱軍のリーダーと何度か交渉を持っているが話はまとまらなかった。1930年の6月にトルコ軍が攻撃を仕掛けた。すぐにホイブンはクルド人部族に支援を求めている。ホイブンはこのときにセーブル条約で保証されていた内容を引用し、クルディスタンの団結を呼びかけた。クルド人の中でも数の多いクルマンジー・クルドが主体となった反乱であり、戦闘は広い地域にわたった。8月、9月にはトルコ軍が攻勢にでて反乱は鎮圧された。トルコのとった対応は厳しいもので、場合によってはクルド人の村は爆撃され火をつけられた。全てのコミュニティから多くの犠牲が出たと伝えられている。この反乱の鎮圧の後、時の首相はトルコ政府の見解を簡潔に述べている。曰く、「この国ではトルコ国民だけが民族的権利を要求することができる。他の何者もその権利を持たない」。このころからクルド人は「山岳トルコ人」と呼ばれ、存在自体を否定されるようになった。
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