アメリカにおける紛争の火種
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 21:38 UTC 版)
「アメリカ独立戦争におけるフランス」の記事における「アメリカにおける紛争の火種」の解説
七年戦争の後、イギリスはその経済事情から植民地における交易をより厳密に支配する方向に進んでいた。税率が上げられ、交易は排他的になり、イギリス駐留軍を維持するために特別の課税を植民地に求めた。植民地人は「代表なくして課税なし」という法を楯に抗ったが、税金は押しつけられ一連の摩擦を呼ぶことになった。 抗争の中でも良く知られた事件は1773年のボストン茶会事件である。イギリス政府が苦況に喘ぐ東インド会社を救うためにアメリカ植民地における紅茶販売の独占化を図ったが、植民地人はこれを拒み、ボストン港に停泊する船から相当量の紅茶を海に投げ捨てたものである。イギリスが報復のためにボストン港を封鎖したので、ボストン市民の見方が急速に硬化した。植民地人による第一次大陸会議が開催され、武装民兵組織や新しい行政府が作られた。1776年7月4日、アメリカ合衆国は植民地の連合とイギリスからの独立を宣言したが、まださらにその力を強化していく必要があった。 強力なイギリス軍に対して、13植民地は武器も頼る友邦も無かったので、自然とフランスに顔を向けた。ベンジャミン・フランクリンとの交渉により、フランスは紛争そのものには関心を持っていなかったが、反乱軍に関与を始め、1778年2月からは開戦に踏み切った。この時はまだイギリス海軍にフランス1国で対抗しなければならなかった。
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