アムステルダム帰還
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 06:35 UTC 版)
「オットー・フランク」の記事における「アムステルダム帰還」の解説
1945年6月3日にアムステルダムに帰還した。オットーは親戚や友人の多さのおかげで強制収容所から解放されたユダヤ人の中では経済的には恵まれた方だった。親戚が小包やお金を贈ってくれた。ニューヨークのネーサン・ストラウスjrも送金してくれた。また住居を失ったオットーのためにミープ・ヒースとヤン・ヒース夫妻が自宅に同居させてくれ、プリンセン運河通りの会社の社業にも復帰できた。ヴィクトール・クーフレルとともに会社の取締役に復帰した(オットーとクーフレルは1955年に会社を売却するまで経営を続けた)。だがオットーはこうして得た金を自分のためにはわずかにしか使わず、同じ境遇のユダヤ人、特にアンネの友達でベルゲン・ベルゼン強制収容所から生還したハンネリ・ホースラルとその妹への義捐金に宛てた。 オットーは仕事をしながら娘たちの情報を探り続けた。そんな中、1945年7月にベルゲン=ベルゼンでアンネやマルゴーと一緒にいた囚人ヤニー・ブリレスレイペル(英語版)がオランダ赤十字社からの行方不明者に関する調査に対してアンネとマルゴーの死亡を報告した。これを知ったオットーは7月18日にヤニーに直接面会し、アンネとマルゴーについて質問した。彼女の口から改めてアンネたちの死を聞かされたオットーの顔は蒼白になり、椅子にどさりと崩れ落ちたという。 ロンドンにいる兄ロベルトから「短い間とはいえ家族で幸せに暮らせたことは、お前にとってせめてもの慰めと思う。彼女たちはもう苦しんではいない。生きること、絶望しないこと、愛する者たちの思い出を大事にすること、それがお前の役目だ。こんなに辛い目にあってもお前は怒りや憎しみの言葉を口にしない。本当に感心している。」という手紙を贈られた。
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