アイダホの若い投手
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/14 23:23 UTC 版)
「1907年のメジャーリーグベースボール」の記事における「アイダホの若い投手」の解説
この年に最下位を「独走」していたワシントン・セネタースのジョー・カンティロン監督はクリフ・ブランケンシップ捕手をスカウトにした。この当時は今のようなスカウティング専任の役職は無かった。ただブランケンシップ捕手がメジャーリーグの中で有数の「打てない捕手」でしかもケガをしてしまったのでスカウトに任じたのであった。その時にアイダホの旧知の人で酒類のセールスマンをやっていた野球狂の男から「素晴らしいピッチャーがいる」との報告を受けて、カンティロン監督はウイチタに派遣していたブランケンシップにアイダホに行くように連絡した。ブランケンシップはウイチタで有望な外野手(クライド・ミラン)を獲得してすぐにアイダホに向かった。ブランケンシップはこの噂の若い投手の試合を見てすぐに惚れ込んだ。その場ですぐに「契約金100ドル、今シーズンの残りに月350ドル」という破格の条件を提示した。相手はまだ17歳のカントリーボーイである。「ワシントンまでの汽車賃は?」「もしダメだったら帰りの汽車賃は?」と心配する純情な青年である。ところが入団してすぐに8月2日の対タイガース戦にカンティロン監督は先発させた。結果はサム・クロフォードに本塁打を打たれての2-3の惜敗だった。しかしタイ・カッブ は面食らっていた。余りの快速球と、打者に正対して身体を余り回転させずに、そして横手投げで投げてくる独特の投球モーションにバントで対応した。敗戦投手だが評判は一気に上がった。終生タバコや酒をやらず、ポーカーもやらない、クソ真面目な人間だった。この青年が後に生涯通算416勝(サイ・ヤングに次いで史上2位)、完封110(史上1位)などの数々の記録を作ったウォルター・ジョンソン である。
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