ふくろふに真紅の手毬つかれをり
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冬 |
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評 言 |
この句が以前から気になっていた。そんなある日、楸邨先生のご子息である穂高氏のエッセイに出会った。氏はこの句について、おもしろいけど、わからない、をくり返し、ある時〈私の中での決着はこの春、そうした見苦しい葛藤を経てやっとつきかけている〉として、手毬を落日と捉えたことによって謎解きが終った一部始終が述べられていた。 ‥‥‥空を灼き不可思議な浮揚感をいっぱいに孕んで静かにそこにたゆたうのだ。眩しさに耐えて見守る一瞬の後は、地に接して墜ちるのか、漂うのか。落日のきわどい身ゆるぎは言わば時間を停めた空間での巨きな手毬の弾みとでも言えようか。その不可思議な動きそのものの面白さに魅了された楸邨は、言わば闇の訪れを待つ間の梟がする、静かで孤独な戯れだけが、この微かな動きを招き得るものとして句にくわえ込む試みを為した。‥‥‥梟は夜の猛禽でありながら、何ものかを静かに見詰めている童児に通う相貌を持ち、冴えた神秘の気さえ漂わす。この点が、不可思議な太陽の動きを生むものとして「ふくろふ」を連れ込んだ必然であろう。‥‥‥ (「俳句」平成八年三月号より) 私はこのエッセイを読みながら、真紅の手毬を落日と感じ取った穂高氏に瞠目し、まさに詩人の心を感受した一瞬であった。自然界の昼から夜へと自転を繰り返す営み、その日常の中に梟や真紅の手毬の言葉によって、虚実皮膜の具現化を試みる。俳人楸邨先生の自由自在な生き方、姿が感じられた。 |
評 者 |
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備 考 |
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